悔恨


         悔恨


卒業生を送り出して三年目が過ぎようとするある日、
一通の手紙を受け取った。
高校三年になっていた女の子からの進路についての相談だった。
自分は短大に行こうか就職したほうがいいかと迷っている、
ぼくは答えに窮した。
置かれている家庭の状況と、本人の希望、そこから答えを見つけ出すことができなかった。
自分の未熟さを痛切に知ったものの、答えが見つからないから、
その封筒をかばんに入れたまま、日にちがどんどん経っていった。
気づいたとき、返答の期限はとうに過ぎてしまっていた。
ぼくはかばんから取り出した封筒を見ながら、慙愧の念にさいなまれた。
考えの足りなさ、無責任さ、心がぎりぎり痛んだ。
返事をもらえなかった彼女のむなしさ、裏切られたと思ったであろう、
その心を想像できなかったオレはまだ二十代の青年だった。
この失敗は取り返しがつかない。
答えが分からなかったら、答えがなくていいのだ。
彼女の悩みを受け止めて、一緒に考えることなのだ。
何はなくとも、まずは返事をすることなのだ。
答えなくてもよい、応えよ。
子どもからの手紙には、大概返事を書いてきた。
手紙をもらったらうれしいし、返事を書くのも楽しかった。
それなのに何回かの重大な失敗をやってしまった。
返事はすぐ書く、欠かさずに書く、このことを痛切に思う。
それは子どもだけでなく、すべてに通じることではないか。
ぼくの送った手紙に、かならず間髪いれず返事を返してくれる人がいる。
次第にその人への信頼感が湧き、尊敬の念が生まれた。
逆に返事のない人には、心配・不安、疑問が芽生える。
それが度重なると、この人は私を「切っている」、と思うようになる。
この人とはこれで終わったのかと、むなしさが湧く。
子どもが発する質問、相談、訴えをまともに聞いて反応する、
それを怠るな、ということなのだ。
これは教師の責務なのだ。
キャッチャーは、ピッチャーのどんな球もとろうとする。
捕れないこともあっていい。捕ろうとする、それが教師に委託された仕事なのだ。
子どもが生まれ、育っていく過程では、
まず親が最大のコミュニケート相手になる。
子どもの眼を見て、親は反応する。
その反応を見て子どもは育っていく。
子どもとのコミュニケートは親の楽しみ、
これを苦痛に感じるなら、
その苦しみは子どもに跳ね返っていく。
子どもの発する声、行動、表情を、無表情に聞き流し、
冷たい壁のように跳ね返し、
適当にあしらう親がいる。
心に余裕がない場合もあるだろう。
しかし、そうして子どもの心に空洞が広がっていく。
教師は親とは別の、重要な大人のコミュニケート相手だ。
教師は、学校という世界を社会から託され、
子どもと真正面からコミュニケートするのだ。
このコミュニケートの質が、問われるのだ。
どんなに忙しく、どんなに煩わしく、どんなに疲れていても、
応えを待っている子がいる。
疲れているなら、
いまは疲れているから休ませてくれる? と反応する。
そうしたら必ず子どもからのやさしい応えが返ってきたものだった。
冷たく無視する、これほど子どもにとって悲しいことはない。
ぼくはその失敗も記憶の中にある。
記憶はぼくにそのときの間違いを教えてくれている。
いまさら詫びても詫びきれない、悔やんでも悔やみきれない‥‥。
一人一人の子どもとコミュニケートしない者は、
教師としての資格はない。