⑥  人と人との関係

  
 中国の街を歩いていて、「お構いなしだなあ」と思うことがよくあります。
 市場の猛烈な人ごみの中へ、バイクで乗り込んでくる人がいました。もちろんそろそろだけれど。もうお構いなしだな、とそんなときに思います。
 歩道にロープを張って理髪店がタオルを干している、ここは歩道だよ、お構いなしだなあ。住宅の上の階の人が窓からものを捨てている、下の階に洗濯を干しているんですよ、お構いなしですねえ。
 日本人の感覚で中国の庶民の生活をとらえているとそう思ってしまうことがよくあるのです。
 スーパーでものを買ったら木で鼻をくくったような店員が、ぽんとお釣りを投げてよこす。もうちょっと愛想よくできませんか、と思ったこともあります。
 八月の終わりだったか、その日は金もうけの神様の来る日だとか、宵の口から爆竹が鳴り出しました。住宅の棟の間の広場でも誰かが爆竹を鳴らす。すさまじい音です。それが十時ごろまでつづく。日本なら絶対苦情がでるだろうなあ、トラブルになるだろうなあと思います。
 どうしてトラブルにならないのだろう、不思議だなあ。
 中国は人間の数が多いから、それだけ多様な現象もあるでしょう。日本なら規制が働くと思われるルーズな、いい加減な、勝手気ままな行為と思われる現象を考えていて、いやあ、これは、むしろ「人間と人間の関係がゆるやか」ということではないのかなあ、と思えてきたのです。
 「それはダメ」「これはよくない、迷惑だ」と咎める気持が日本人ほども細かくない。悪く言えば「ずさん」、よく言えば「寛容」、その違いが、現象に現れてくる。
 不十分さのいっぱいある現象を中国の人々は、仕方のないこととして受け入れているのです。
 そこから人間と人間の距離を考えるようになったのです。
 人間と人間の距離が日本と中国とでは異なる。日本では、人間と人間の間に距離をおく。ところが中国では、その距離が近いのではないか。物理的にも精神的にも人と人とが接近しているのではないか。トラブルになると思われることが、そうならないのはそれを容認し受け入れているからではないか。
 コミュニケーションということでも、人と人が話す率は、中国の庶民のほうが多分多い。公園や広場で、夏の夜は遅くまで、涼みながらおしゃべりしている人たちが、あちこちで見られる。
 夜中に眼が覚めたとき、外で人の話し声が聞こえたので、広場を見ると、まだ数人の人が床几に腰を掛けておしゃべりしています。もう12時になっていました。
 日本の公園には人の姿はなく、住宅街の歩道で遊んでいる子どもも人の姿もない。幼児から高齢者まで、他者と交わる濃度が薄くなってきているように思われます。
 日本では、子育てのことで悩んでいるお母さん、仕事で悩んでいる会社員、部屋にとじこもっている子ども、TVばかり見ている高齢者、多くの人が孤独で、他者との深い交流をしていない。ひきもり症候はすべての年代にも言えることではいないか。
 武漢大学で教えた子が遊びに来ました。「架け橋をつくる日本語 中国・武漢大学の学生たち」(文芸社)のなかにも登場する女の子です。彼女は青島の大手企業に勤めていました。人間と人間の距離についての話になったとき、彼女はこう言いました。
 「日本で問題になることが中国で問題にならない、それは中国ではまだ権利意識が少ないからだと思います。日本は、問題が起こるとそれに対処していく気持ちが強い。日本は中国に比べて、権利と義務の意識が強い社会だと思います。」 
 そうかもしれないなあ、とも思うし、でもはたしてどうなんだろう、とぼくは考え込みます。
 よく「中国人は懐が深い」と言われます。小さなことに目くじら立てない寛容さ。

 満員のバスに乗ったとき、先に座っていた二十歳ぐらいの女の子が、どうぞ座ってください、とぼくに席を譲ってくれました。そうして一つの席に二人で座ったのです。一人の女の子のひざの上にもう一人が座って、一時間彼女達は一つ座席でバスに揺られていきました。