「北越雪譜」2

 

 「北越雪譜」に雪崩の記事がある。要約すると‥‥、

 

 村の百姓、二月初め、朝から外出して夕方になっても帰ってこない。息子が探しに出たが見つからない。夜中に一人の老人がやって来た。老人は、「心当たりがある」と言う。

 「私は今朝、西山の峠道のなかばで、お宅のご主人に出会いました。どちらまでと問うと、稲倉村に行くと答えてお通りになりました。私はそのまま峠を下ってきました。すると雪崩の音がしました。これはきっと西山の峠の雪崩だと、思いました。御主人は無事に峠を越えられたかどうか、雪崩に遭われたのではないか。」

 老人がそう言うと、家の若い者たちは気負いたち、たいまつをこしらえたりしたが、もう少し様子を見ようということになった。そして夜明けが来た。

 百姓の家に村の者たちが次々と集まってきて、西山へ行こうとなった。

 みんなが西山の峠に着くと、雪崩は四十メートルほどに渡り、峠を埋めていた。いったいどこを掘ったらいいのか分からない。すると一人の老人が、若衆を連れて村に戻り、村に飼われている鶏を集めて、峠に戻ってきた。若衆は鶏を雪崩の上に放した。鶏はあちこち歩いていたが、一羽の鶏が、羽ばたきをして、ときの声を上げた。すると他の鶏も集まってきて、いっせいに声をそろえて鳴いた。老人は村人たちに、

 「ご主人はこの雪の下だ」

 と叫んだ。村人たちはいっせいに雪を掘った。そうして2メートルほども掘ったが見つからない。さらに掘り下げていくと、赤い血に染まった雪が出てきて、腕と首のちぎれた死体が見つかった。さらに掘っていくと首と頭が出てきた。探していた当人だった。

 家族と村人たちは、遺体を戸板に載せて、泣く泣く村に帰ってきた。

 雪崩に命を奪われたものは多い。家を圧し潰された人もいる。

 

                 ☆      ☆      ☆

 

 積雪の多い冬山登山は、雪崩に遭遇する危険がある。学生時代、大学山岳部の北アルプス白馬岳、猛吹雪の中の登攀は、胸までくる豪雪だった。頂上間際、新雪をこぐようにして登っていったときに雪崩が起きた。四人パーティだった。私の前を登っていた金沢が生き埋め、平岡がピッケルを臀部に突き刺して重傷、北山が頭に傷を負い、私は無傷だった。北山と私と二人は、ピッケルを雪中に突き刺して、金沢を探し、発見するも、呼吸をしていなかった。人工呼吸をやったが生き返らなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「北越雪譜」を雪の日に開く

 

 

     

 「北越雪譜」という書がある。江戸時代の越後のいろんな雪に関する情報を集めて記録された雪物語で、ときどき手に取って、古ぼけた表紙をめくる。濱森太郎が現代語に訳してあるが、さらに要約してここに書いてみる。「雪のたかさ」という文章。

      ☆      ☆      ☆

隣の宿場の六日町に住む、天吉老人は以前、妻有(つまあり)の庄に出かけた時の話として、こんな話をした。天保五年のこと、千曲川の辺りに住む人が思い立って、雪の降り始めから十二月二十五日まで、雪の高さを測ったところ、合計五十四メートル以上になったという。雪国に住む私ですら信じられない気がするが、しかし考えてみれば、十月の初雪の日からおよそ八十日、毎日降ればそれぐらいになる。

私の暮らす越後、ことに東南部の人知れぬ山や谷に降る雪の深さは、計り知れないことになるだろう。

越後高田城の大手門の広場に、高さを記した大きな柱が立っている。これを雪竿という。高さ三メートル。雪の量は、年貢その他の税を決める手掛かりとなる。天保五年の高田の積雪は、三メートルを超えたという。雪竿という言葉は、越後のこととして、俳句にもよく見える。越後では、除雪を「雪掘り」という。土を掘るように雪を掘る。掘らなければ雪は家の出入り口をふさぎ、家を埋めて閉じ込められてしまう。掘る時、木のスキを使う。「コスキ」と言う。木はブナの木を使う。ブナは粘り強く、折れにくく、軽い。雪の中で生活するには、もっとも必要な道具だ。木こりはこれを作って、里人に売る。里人で、コスキを持っていない人はいない。雪の深い所では、一家みな、屋根に上り、雪を掘る。その夜、大雪が降れば、また元通り。みんなため息をつく。

旅人は大雪で、道がどこにあるのか、野原では方角も分からなくなる。それで、里人を何人も雇って、道を踏み開かせる。その費用が数百文にも及ぶので、貧しい旅人は、道が開くまで、ぼんやり時を過ごす。健脚を誇る飛脚もこの雪道では、一日にせいぜい二里か三里に過ぎない。かんじきを履いた脚では不自由で、おまけに膝までの雪、雪国の苦労の一つである。春になると雪が固くなるので、「そり」を使って重い荷物を運ぶ。里人は荷物と一緒に「そり」に乗って、すべっていく。「そり」の大きなのを「修羅」という。便利なこの道具も雪が凍り付いた道でなければ用いがたい。里人は、凍り付いた雪道を「そりみち」という。 

    ☆     ☆    ☆

 「北越雪譜」には、雪にまつわる話がいくつも収録されている。鈴木牧之の到達した越後の原点は雪であった。彼がその著書を企ててから出版するまでに約30年の歳月が必要だったという。

 

 

 

 

 

 

激減する野鳥

 

 

  雪が積もると、野鳥たちは食べ物が無くなる。野鳥は、軒下や植木の根方など、地肌が見えるわずかなところを、くちばしで掘り返しているが、食べるものはなかなか見つからない。そこで台所から出る野菜くずなどを庭においてやったりすると、いくらか食べに来ている。

    大雪の日、またもや無双網でスズメを獲る人がやってきて、近くのススキの群落に網を仕掛けていた。早速、日本野鳥の会に、メールを送った。

 

    「毎年、この季節になると、私の家の近くにある、ススキの群落地へ、スズメの捕獲にやってくる人がいます。狩猟の許可証は持っているそうです。狩猟者は何百羽のスズメを無双網で捕獲し、焼き鳥屋に売ると言います。スズメは、急激に減ってきています。以前は家の軒や電線に群れる姿を見ましたがもう見られません。以前私は、日本野鳥の会のツバメの調査に参加したことがありますが、夏に飛ぶツバメはわずかです。野鳥全体が減っています。心が痛みます。このような状態を放置していいのでしょうか。」

   

     野鳥の会から返事が来た。

    「スズメ件については、個人が、合法的な狩猟を行っているもので、現時点では対応できることはありません。カモ類の銃猟等と同様のものであると言えます。当会では、繁殖分布調査の結果を基に、環境省に働きかけ、公聴会で意見を述べ、減少が著しかったバン、ゴイサギが狩猟鳥獣から外されることになりました。モニタリング調査でスズメの減少が著しいという結果がでれば、行政への働きかけを行って狩猟対象から外されるよう努めるとともに、根本的な解決につながる生息環境の保全を検討することもあるかもしれません。また、当会ではバードウォッチングを普及しています。野鳥を見る人の数が増えることにより、生息地の悪化や密猟等が発見しやすくなり、野鳥保護の必要性を国などに訴えていく際の力も大きくなります。
 目の前での野鳥の捕獲は心が痛みます。風力発電へのバードストライクや、山林を伐採してのソーラーパネルの設置など、生息地環境の悪化も凄いスピードで進んでいます。
    当会では、支部等と連携しながら、野鳥の保護と生息地の保全を進めておりますので、今後ともご理解とご協力をお願いいたします。」

 

   こういう返答だった。地元の行政はどう考え、どう対処しているのだろうかと思う。

 

 ツバメ、ヒバリ、人の暮らしに身近なこの鳥たちが、激減している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夕映えの歌

   


    積もった雪は、膝ぐらい。工房の薪ストーブに火を入れ、妻と二人、暖を取りながら本を読んでいると、降りしきる雪の中、家の前の道路に雪かきする三人の人影が見えた。出て見ると、ご近所のOさんの息子さんと娘さん、そして雪かきの手伝いに来てくれた息子さんの友人だった。挨拶を交わして、ぼくも一緒に雪かきをした。

    Oさんはつい最近、難病でお亡くなりになった。奥さんと息子さん、娘さんの三人が我が家に来られ、訃報を告げられた。Oさんは入院や通院を繰り返し、治療を受けておられたが、少し元気になられたのではないかと思っていたら、突然の悲報だった。 奥さんは、葬儀はしないで家族で見送る旨、告げられた。Oさんの葬儀は、家族葬なんだなと理解したが、別れのあいさつを何もしないことに、なんとなく心が引っかかった。せめては位牌か御骨に別れをしたい。そして、「あの歌」を歌って、お別れしたい。「あの歌」というのは、Oさんの家から200メートルほど野の道を行ったところに、ぼくが廃材を使って手作りした野のベンチがあり、そこに座って、一人夕暮れに声を上げて歌う歌だった。

    西の空が真っ赤に染まる見事な夕焼けの日があった。あまりに感動的なのでOさんの家に声をかけて、

   「美しい夕映えですよ、見事ですよ、一緒に観ませんか」

    Oさんは奥さんと一緒に出てきて、三人で燃えるような夕映えを眺めた。ぼくの口をついて、「あの歌」が流れ出た。

         夕べ 峰に 訪れて

         あかね空に 陽は入りぬ

         流れる雲は 紫に

         あしたを語る 星月夜。

    その時の歌、それを亡き人の墓前で歌い、Oさんとお別れをしたい。

Oさんの旅立ちから数日経った。そして雪が降り積もるこの日になった。

    雪かきの手を休めた娘さんに、ぼくは声をかけた。

    「お父さんに、お別れをしていないので、位牌かお骨にお別れしたいと思っているんですが。」

    娘さんは、雪かきスコップに手を置いて、にこやかに応えられた。

    「私たち家族は、特に葬儀というものをしませんでした。火葬での骨上げもしませんでした。父はよみがえります。それが私たち家族の信仰です。」

    そう言って、聖書の中にあるという魂のよみがえり、復活を語られた。その話を聞いて、そういうことだったのか、と納得した。死しても永久の別れではない、家族の愛、信仰の共有、記憶の共有、そのなかに父は生き続ける、それがOさん家族の信仰なんだと、自分なりの理解をした。

    世界にはさまざまな信仰があり、死者の見送りも異なるものがある。葬送法にも、火葬、土葬、奄美大島だったかの風葬インドガンジスの水葬、チベットの鳥葬‥‥、ジャーナリストで探検家だった本多勝一は、ニューギニア高地人の葬儀に出会ったことを書いていた。亡くなった人の遺体を山に運び、村を見下ろす森の木に棚を作って遺体が村を見下ろすように安置する。遺体はずっと村を見守ってくれるのだと。

    雪が降り続いていた。温かくて甘いタイコヤキをもってOさん宅へ行こう。あの歌を歌ってこよう。

 

    

 

 

 

 

 

 

戦場体験を考える

 

 河合隼雄19282007)が、国際会議に出席するために北京に行った時、日本人女性の留学生から一通の手紙を受け取った。手紙は、彼女の苦悩を伝えていた。

 「私は中国人の学生と親しくなるにつれて、率直な意見を聴くようになりました。

『あなたと親しい間柄だから言うけれど、なぜ日本人はあのような残虐行為ができたの?』

 そう言って、日本が中国を侵略した時の具体的な残虐行為を詳細に聞かされ、私は、いたたまれない気持ちになります。先生、どう応えたらいいですか。教えてください。」

 河合隼雄はこの手紙を読んで、自分もこの問いを引き受けていかねばならないと思う。

 大江健三郎は、この手紙にこう応えた。

 「このような問いのなくなる時を私は恐れる。それがなくなる時は、関係性の断絶するときであり、隣人として認めなくなることである。」

 鶴見俊輔は、こう応えた。

 「人類は、また日本国民は、こういう不正義を行ったその事実から、新しく未来を探し求めていこうとすることだ。国家は進歩の積み重ねであるよりも、人類滅亡である方が予測としては確かだ。絶滅への道をたどる人類が、その途上でその時なりに互いに助け合い、幸福を実現するにはどうしたらいいのか考える、そして最期をどのように迎えるのか考える、これは倫理学の課題だ。

 私は戦時中、海軍の軍属になり、軍関係の新聞をつくる仕事をしながら、人を殺したくない、殺すよりは自分が死ぬことを願った。人を殺す寸前まで来たが、好運によってそこから逃れ出ることができた。もし命令が下ったら、私はそれを退けるだけの勇気を持っていたか。それは敗戦後くりかえし自分に向ける問いとなった。

 回りの大集団が正義とすることに反することを自分一人で考える時、自分は悪人だという感情が付きまとう。自分は悪人として生きようと思い定めたことが、逆理として私を支えた。

 倫理を考える時、一つの「正義」の大道があり、その道を自分は歩んでいると考えるのには危うさがある。正義を疑いなく信じる正義家を私は信じない。自分の生きる倫理には逆説が含まれている。ペーターギュルテン(ドイツの強姦殺人犯)のように、自分はどうしようもない人間だ、殺してくれという判断が、倫理を考える時の自分に訴える力を持つ。」

 戦場からの手紙「蟻の自由」を、古山高麗雄は書いた。彼は軍に召集されてカンボジアラオスの戦線に送られた。

 「兵隊はよく、自分たちは虫けらだと自嘲する。兵隊がそう言う時、おれたちは愚弄されながら死んでしまうのだという気持ちで自嘲する。兵たちは小さくて軽くて、遠い所に連れて来られて、帰ろうにも帰れない、虫けらみたいだと思う。‥‥行軍中、ぼくは泣いた。泣きながら歩いた。灯火がみな十字架に見えた。何百何千の十字架が夜空に輝いていた。ぼくは死にたい。ぼくはアリ。戦争する気のないアリだ。」  

 

 

 

 

 

 

 

 

  

残り続ける記憶

 

 

    山の呼び声を聴くと 重いキスリングザックを担いで、大阪から夜行の蒸気機関車に乗って、ぼくは信州に出かけた。夏、冬、春、何度か鹿島槍ヶ岳に登った。大町から田舎のバスで鹿島の部落に入った。60年も前のこと。

    鹿島槍ヶ岳に登る時は、山奥の鹿島部落の農家、「狩野(かのう)のおばば」と呼んでいた人の家によく泊めてもらった。おばばはいつも笑顔で迎え入れ、囲炉裏の火のそばで、湯気の立つ飯に、温かい味噌汁と、鉢に山盛りの野沢菜の漬物を出してくれた。宿代というのは特になく、相棒の北さんとぼくは、土産に持ってきた大阪名物の菓子「アワオコシ」の包みの間に紙幣をはさんで置いてきた。

    雪解けが始まっていた。おばばの家のすぐ外に、おばばが野沢菜を洗う小さな水路があった。

   「生きて帰ってきてください、生きて帰ってきてください」

    出発する時、おばばは泣きそうな声で言った。腰が少し曲がっていた。

    無事に山から下りてくると、おばばは、大喜びした。目に涙があった。

    それから何年後だったか、おばばが亡くなったのを知った、山岳雑誌「岳人」の記事だった。「鹿島のおばば」を愛し、偲ぶ岳人が多くいたのだ。

 

    随筆家で登山を愛した串田孫一が書いていた。

 

        ☆         ☆                    ☆

 

 春先になって、山奥の雪もかたくなっていた。たった一つの教室、そこには村の6人の子どもが通ってくる。部落の戸数は20戸にもならない。薪ストーブを囲んで、毎日、子どもたちは、一人の若い先生から教わっていた。その集落から小学校までは歩いて3,4時間はかかる。そのために分教場ができているが、雪の季節は分教場へさえ通うのが無理となり、冬の間だけこの集落に先生が一人やってきて教室をつくる。

 朝、子どもたちはスキーをつけて、先生の泊っている家に迎えに来た。年上の女の子は、こまごまと先生の面倒を見ていた。

 暮れ方、私が山から下りて来た時だった。オルガンの音が聞こえてきた。子どもたちはすでに家に帰り、誰もいない。私は、幻聴かと思ったが、それは先生がひとりでオルガンを弾いているのだった。先生は、たどたどしく初歩の指使いで練習をしている。私は、山を眺めながら、オルガンがいかに初歩であろうと、得難い演奏であることを喜んだ。

 やがて先生は練習をやめ、教室から現れた。そこに私がいた。先生は顔を赤らめ、わたしは音楽が一番苦手で、この夏に資格試験を受けなければならないので、‥‥と話した。

 私は、それがどういう試験なのか分からない。だが、こんな僻地でこそ何かすばらしい音楽と出会うのではないかと思ったが、それを言葉として若い先生に伝えられなかった。

 4月になった。6人の子どもたちは、1時間ばかり歩いて、分教場の方に通うことになった。若い先生は、自分のことはどうなるか分からない、と言った。

 

      ☆       ☆       ☆

 

 「僻地」と題した短い文章だった。読んだ後、心に残るものがあった。この若い先生は、たぶん教員資格がまだ無かったのではないか、その試験をとろうと、オルガン練習をしていたのではないか。一冬の出会い、その記憶は子どもたちの心の中に生き続けていくことだろう。6人の子どもたちとの一冬の生活、子どもたちにとっても、その記憶は生涯心に残ることだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

イスラエルの民、ガザの悲劇

 

 

    ガザの悲劇、上のような写真がネットにとどいた。

 1月29日夜、NHKクローズアップ現代」は、「ホロコースト生還者が語るガザ攻撃」という苦悶の映像を伝えた。

 第二次世界大戦前夜から、ヒトラーナチス・ドイツユダヤ人絶滅のホロコーストを企て、それはヨーロッパの他のいくつかの国にも広がり、犠牲者は570万人に及ぶとも推定されていた。戦後、生き伸びたユダヤ人はアメリカなど各地に移住したが、自分たちの国を再興しようとシオニズム運動が起こり、ヘブライ3000年以上の歴史をもつ旧約聖書の地に、新しい国家イスラエルを建設した。

    「クローズアップ現代」に登場した、第二次世界大戦前から戦後を生き延びてきたユダヤ人は、90歳を越えているだろう、深い皺に、苦悶と葛藤をにじませて、「ガザ攻撃はまちがっている、なにゆえ祖国はこのような戦争を行っているのか」と、語っていた。

    「ポグロム」という言葉が出てくる。それは、ユダヤ人に対する組織的な掠奪や虐殺を意味するロシア語である。「ポグロム」という言葉が世界的に有名になったのは、1903年4月の、ウクライナのキショフにおけるポグロムからであった、ロシア皇帝は極端な反ユダヤ人を政策にした。皇帝に対する国民の批判、不満をそらせる目的で、ポグロムを奨励した。それが後のナチスドイツによるユダヤ人虐殺につながっていった。

    ナチスによるユダヤ人虐殺、その迫害から生き延びた人たちの、重い重い問いかけ。なぜにその被害者だったユダヤ人が、ガザの罪なき人々を殺すのか。

    低く、絞り出すような魂の声、その発言は、イスラエルの政府や、若いイスラエル人にとっては不都合な発言だろう。ハマスが攻撃をしてきた、彼らがイスラエルを滅ぼそうとしているのだ、ハマスへの反撃は、我らの存亡にかかわることだと。

   深いしわを顔に刻んだ老ユダヤ人は、今のイスラエル政府や国民の多数にさからうことは 自分の身に危険でもある。しかし今の祖国を憂えるあまり、危険を呈して「ガザ攻撃は間違っている」と訴えていた。

 番組の終わりに、老いたるその発言者は今のところ無事であるという取材者の字幕が入った。