早くも冬

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今朝、霜が降りていた。稲刈りの済んだ田んぼは、白い。

霧が林や山々に、ベールをかけている。

気温、零度。

冷たい空気を吸い込みながら歩く。気温が低くなり、胸が痛む。ハアハアハア、息切れもする。

胸の痛みは、神経痛だと医師は言った。左乳の下から左脇にかけて、神経が走っている。それが応えるのだと。あと二箇月ほど無理をしないように、とのことだ。

かなり体力が落ちている。

朝、二千歩、夕方、二千歩。両ストックで歩く。左膝が痛む。今はこれ以上歩くのは無理。

一昨日、タマネギの苗、二百五十本を植えた。ハアハア、言いながら。

 

フィッシャーディースカウが歌うシューベルトの歌曲集。その中の「夕映えの中で」を何度も聴く。昼のコーヒーがおいしい。

 

今年も、オジョウがやってきた。ジョウビタキ。こんな小さな体で。

夏場は大陸で過ごすのだ。たったの一羽、この冬も、窓ガラスをくちばしで叩くことだろう。おジョウの食べ物、ヘクソカズラの実を用意してやらねば。

 

 

 

突然、肺ガンがやってきた <6>

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 僕が退院した翌日、小学三年生のウイちゃんは、お父さんと一緒に燕岳に登って燕山荘に泊まり、元気に下りてきた。

 「じいじ、大丈夫?」

 「大丈夫、大丈夫。元気だよ。」

 夜、退院パーティをやってくれた。ぼくは「モミの木」の歌を歌い、ウイちゃんはそれを覚えて歌った。

 息子や孫は、これから山に登るだろう。ぼくはもう、山には登れない。

 「ピッケル、持って帰るかい。」

 ぼくは山の魂の象徴、ピッケルやアイゼン、山の本を息子に贈ることにした。ピッケルは、モンブランの麓、シャモ二―の鍛冶屋、シモンのうったもの。

 

 大正から昭和の初期にかけて、浦松佐美太郎は、スイスアルプスの登攀に熱中していた。彼の名著「たった一人の山」を本棚から出してきて、ドイツの学生歌を聞きながら、しんみり心に湧く思いを味わっている。その本に、ピッケルについて書いてあるページがある。

 

 「山の道具の中で、ピッケルほど形のいいものはない。穂先へ走る鋭い直線、刃をつくる三角の線、この両者をつなぐ気持ちのいい曲線、頭から石突きへと、せばまるように流れている柄のまるみ、いくら見ていても飽きない。アルプスの谷深く、百年もの年月をかけて、つくり上げられたピッケルは、山の道具として、もう完成されているのではあるまいか。

 なんの飾りけもなければ、気取ったところもない道具だけに、使えば使うほど味が出てきて、持つ人に限りない愛着を抱かせる。

 村の牧場に立てば、氷河がすぐそこに顔を出している。そんな山奥の鍛冶屋で、とんてんかんと鉄床の上で鍛え上げたピッケルを、私はほしいものと思っていた。山で使うものは山のものの方が味がある。光で照らせば、氷河の色が穂先に浮かび出るように覚えるだけでもうれしい。」

 

 

 

 

突然、肺ガンがやってきた <5>

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 自分も肺ガンだったと言われた隣のベッドの人は、

 「私も五時間半の手術でした。」

とのこと。そして

 「みごと。」

と一言付け加えられた。ぼくもあいづちを打った。

 「見事なもんでしたねえ。」

 同感。

 五人の医師チームによる手術は、麻酔状態で眠っている間に行われた。だからその間の、「大変でしたよ」と術後に浜中医師が言われた手術の様子は、何も分からない。目が覚めたら、手術は完了して、左わき下に開けられた四か所の穴も縫合されていた。この五時間半の前と後とでは、我が体は大きな変化をしていたわけだ。

 実に順調にコトは進んだように思える。その過程は、ガン発見前からの全過程にあてはまる。八月からの過程も見事なものだった。

 八月半ばに、かかりつけの街の医師に診てもらったときは、レントゲンに何も映らなかった。しかし咳と痰の原因を調べたいというと、医師は紹介状を書いてくれて、日赤安曇野病院へ行った。日赤の若い医師は、CTを撮り、その画像を見るなり、「ガンの可能性あり」と言った。確かに左肺上部に白い塊があった。曽根原医師はすぐに紹介状を書いてくれて、信大病院へ行くことになった。そして数日かけて次々と詳細な検査がなされ、結果が出てきて、肺ガンが明らかになったのだった。

 このときの一連の動きも、「見事」の一語に尽きる。

 一週間ほど術後の入院生活をして、看護師さんたちの温かいお世話を受け、経過が良かったので、早々に退院したいと表明し、医師団の了解を得て退院した。

 ちょうどその日、家に息子が孫娘を連れて、見舞に来てくれていたが、絶好の秋晴れだったので、息子と孫は燕岳に登り山荘に一泊して、翌日下りてきた。

 僕はその日からまたストックをついて野を歩き、ベンチに腰を下ろし、山を眺めながら歌を歌っている。

 

 

突然、肺ガンがやってきた <4>

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 病室604号室は、四人部屋。四台のベッドはカーテンで仕切られて、互いのあいさつも何もない。どんな人なのか。顔も分からない。医師、看護師と会話している時の声は聞こえるが、患者同士は断絶している。これもコロナが影響しているのかな、と思う。

 そこで、ぼくは挨拶を交わして、みんな自己紹介しよう、と考え、声を掛けようかと思った。けれど、それも迷惑かもしれないなとためらってしまう。

 

 もう二十数年前になるが、腕を怪我をして、伊賀上野の病院に入院したことがあった。外科病棟の一室は六人部屋だった。患者を仕切るカーテンはないから、気軽に話ができた。中の一人が、腕を白布で吊るしていた。ぼくは、どうしたのか聞いてみた。

 「内科で入院したのだけれど、明日退院、沖縄に帰れる、という前の日だったので、外出許可をとって街へ出たんです。街を歩いて病院に帰る途中、古い町並みの中を歩いていて、つまづいてしまったんです。バランスを失って、民家の入り口のガラス戸に倒れ込んで、腕をガラス戸の中に突っ込み、出血多量、大怪我をしてしまった。退院は吹っ飛び、このありさまです。」

 それから六人の雰囲気ががらっと変わった。同情、なぐさめ、励ましの言葉が次々と五人の口から出た。沖縄からやって来たその人は、家族の今の境遇を語った。

 「ここで、こんなことをしているわけにはいかない。どうしたらいいのか。」

 五人は考えた。そして自分の考えを語り始めた。

 いつのまにか六人の間に、旧知の友人であるかのような友情が通っていた。

 

 あの時のことを思い出し、この同室に人と、せめては挨拶でもと僕は思っていたら、廊下側の向かいの人が、カーテンの隙間から新聞を読んでおられたから、声を掛けた。その人もかなりの高齢者だ。ニコニコ笑いながら、

 「もう読み終えたから、この新聞読みますか。」

と言って、数日分を渡してくれた。

 それからその人とは少し近づくことができた。窓際のもう一人の人は、僕より数日後に手術していた。部屋のカーテンが開いていたから声を掛けあいさつした。

 「私も肺ガンです。」

 彼はガンの状況を話してくれた。二人と話ができたが、もう一人の窓際の人とは話ができなかった。

 それでも同室の人と親しくなると、病室の雰囲気はがらりと変わる。部屋の空気が変わると、生活の雰囲気、気分も変わる。

 

 

 

 

 

突然、肺ガンがやってきた <3>

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 ぼくは病院の環境について考え始めた。

 病室で本を読むには、ちょっと暗い。電灯を点けなければならないから、デイルームへ行こうと思ってストックをついて出る所へ、看護師さんが具合を診に来て、一緒に歩き出した。彼女は学生のような若さ、言葉を交わしながら歩く二人の姿は、じいさんと孫だ。

 「十階の部屋を、自然を感じ取る部屋にできませんかねえ。入院している人には、緑の環境、自然が必要だと思うんですよ。青空、白い雲、木立ち、小鳥、山々を眺め、日光を浴び、そよ風に触れると、精神が安らぎ、命が元気になると思いますよ。看護師さんにとっても、同じだと思いますよ。あの部屋、活かせませんかねえ。」

 「そうですねえ。私たちも、ホッとくつろげるところや時がほしいです。」

 「私は、安曇野市に住んでいるんですが、建て替え前の、古い安曇野赤十字病院に、ギリシアから贈られた『ヒポクラテスの樹』が中庭にあったんです。ヒポクラテスは医学の祖、医聖と言われた人です。その樹には説明板があって、それを院内の廊下から見ることができたんです。

 赤十字病院の建て替えの計画が出てきた時、ぼくはその聖樹を新しい病院に移植してほしいと、手紙を書きました。

 ところが、新しい病院になったとき、どこにもその樹は残されていませんでした。病院の周囲には、緑の庭園も緑樹帯もありません。

 スペインのバルセロナに、サン・パウという病院がありました。何年か前に行ったことがあるんですが、すでに病院はほかに移ってそこは世界遺産になって保存されていました。その病院は、「自然は、病院の機能において、不可欠な要素で、草木が空気を浄化し、細菌を固定し、気候に影響を与え、防風林の役割を果たし、湿度を保つなどの働きを持っている。庭園は、患者の福祉に欠かせない、という考え方でつくられていました。

 患者たちが、病院のなかのバラ園を散策したり、緑の林の木陰で憩ったり、そんな病院を日本でも造れないものかなあと思います。」

                      

 

 

突然、肺ガンがやってきた <2>

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 黒豆の葉が少し色づいてきたが、トマトはまだ実をつけていた。ぼくは信州大学医学部付属病院に入院した。

 病院は大きく、複雑な建物配置で、迷路のようだ。病室は四人部屋、それぞれカーテンで仕切られていて廊下側は薄暗い。

 僕は、体力を維持するために、病棟の階段を一階から十階まで上って下りるという運動を日に二、三回往復した。十階に大きな展望室があることを発見した。西と南に展望窓が開いていて、南北アルプスの山並みが一望できる。しかしこの部屋は、空き部屋のまま放置され、カーテンも破れたところがあり、荒れた感じだった。どうしてこの部屋を活用しないのだろう。患者にとっても、病院職員にとっても、この展望部屋を、憩いの部屋にすれば、緑濃き信濃の景色によってどんなに癒されることか。精神の解放に役立つことか。病人には緑が、自然が必要だ。

 入院四日目手術。医師団は五人、麻酔が効くとすぐさま意識が無くなった。

 五時間ほど経って、意識が戻った。

 「見事な手術でした。ありがとうございました。」

 僕は感謝の気持ちを述べた。

 「ガンは全部取り除きましたが、転移が疑われていた部位をはがすのが大変でしたよ。」

 浜中医師が笑顔で言われた。

 

 夜、幻覚症状が現れた。同室ベッド隣の人のところに数人の人がおり、周囲でガヤガヤと声がする。ぼくは、これはてっきり秘密の選挙事務所を誰かが病院内につくっているんだと思い、耳を澄ました。知っている婦人の声もする。これは何とかしなくてはならん、こんなこと許されない、どうしたらいいかとしきりに考えていたらまた眠っていた。

 体は酸素ボンベにパイプでつなでつながれ、十本ほどのコード類でがんじがらめだ。夜中のトイレが大変だ。ベテラン看護師さんの甲斐甲斐しいお世話のおかげで、ずいぶん助けられた。若い看護師さんがたくさんおられ、そのみずみずしい、温かい看護がうれしかった。

 二日ほどして落ち着き、あの夜のことは幻覚だったのだと理解した。体を拘束しているものもはずれていった。少しずつ歩く距離を延ばすようにした。

 デイルームへ行って、書棚の、椎名誠カズオイシグロ高橋哲哉の書を読んだ。

 椎名誠は、世界各地への冒険の旅に出ていた。その中には、「十五少年漂流記」や「ロビンソンクルーソー」の舞台となった島を探す探検も含まれている。

 その椎名も、ウツになることがあったのだ。こんなことを書いていた。

 「私は夜更けに目を覚ます。大きな部屋の窓が接近してくる。四方の壁が接近してきて、天井との間で自分はじわじわと押しつぶされていく。私は絶叫した。冷たい汗の中で目を覚まし、必死で部屋の端ににじりより、窓を開ける。しかしホテルの窓は顔さえ出せないくらい狭い幅しか開かない。」

 ホテルの窓が開かないのは、自殺防止のためだったという。その環境、病院もよく似ている。僕のベッドは、廊下側にあり、窓はない。外は見えず、太陽の光は差し込まない。信州の自然とこことは断絶している。(つづく)

 

 

 

突然、肺ガンがやってきた

 

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 42日ぶりに書く。

 八月、咳と痰が、二、三か月前から、続いていたから、かかりつけの近所の医師に診てもらった。レントゲンには何も映らなかった。

 「おかしい」

 僕は医師に紹介状を書いてもらって、日赤安曇野病院に行った。CTで調べた結果が、「肺ガン」、映像を観ると白いものが映っている。

 僕が肺ガンになるなんて、なんということか。

 即刻、信州大学病院に紹介状を書いてもらって、指定日に行った。

 それから日を措いて、精密検査が始まった。CTスキャン、近視鏡、MRI、ペット、呼吸器機能、いろんな検査が次つぎと行われ、肺ガンが確定。リンパ節への転移の可能性もあり。五年後の生存率約50パーセント。

 ここから治療方法についての葛藤が生まれた。主治医は、ぼくの体力を見て、手術がいいのではないかという意見。

 僕の弟に電話すると、

 「後期高齢体に手術すると、それによって余計に体力がなくなり、かえって寿命をへらすことになりかねない。何もしないという選択肢もある。放射線療法という選択肢もある。」

 という。さて、どうすべきか。

 そこで主治医に率直な葛藤の手紙を書いた。

 「8年かけて書いてきたライフワークの小説があり、その完成が近いので、それをなんとか仕上げたいです。」

 返事の電話が来た。

 「ではまた相談しましょう。病院に来てください。」

 病院へ行って相談、

 「念のために一度、放射線科の医師の意見を聞きますか。」

 ということになって、また別の日に病院へ行って、放射線科の医師の意見をいろいろ聞いた。

 結論、

 「ガンの位置が、大動脈に近いから、放射線はおすすめできませんね。」

 これで決まった。手術をしてもらおう。

 この過程で、信州大学病院の複雑綿密なシステム、誠実で先進的な医療体制が見えてきた。そして患者の声に真摯に耳を傾ける医師団の姿に感銘する。

 ぼくはもう迷いもなく、治療に専念することにした。

 しばらく畑や庭の世話もできない。草欠きをした。(つづく)