「鶴見俊輔伝」 <4>

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 鶴見俊輔が亡くなった夜、黒川創は、俊輔の息子で早大歴史学教授、鶴見太郎と二人、遺体をはさみ三人の布団を並べて寝た。

 そのときのことを黒川は書いている。

 

 「私は、一、二度、指先でほんのしばらく、この人の額に触れたが、自分のしぐさがひどく不自然なものと思え、それ以上はできなかった。なぜなら、私は、鶴見俊輔が他者との身体接触をしたがらない人だと、かねてから感じていたからだ。他人の肩をぽんと叩いたりするようなところを見たことがないし、米国人のように自分から握手の手を差し出すこともない。戦争中に、憲兵から殴られた話を書くときなどにも、『なぐられるということは、いやなことで、私は、体を他人にさわられるのでさえひどくまいってしまう。』といった書き方になる。」

 鶴見の死を発表しないでいこうとしたが、記者がかぎつけ、隠すことができず、記者発表をした。その席で、鶴見太郎が、こんなことを言った。

 「――父は、私が子どものころから、いろんなことを話すごとに、『おもしろいなあ』『すごいねえ』『いや、おどろいた』と、目を見張って、心底からびっくりしたような反応を示す人でした。ですから、大人というのは、そういう人たちなのだろうと思っていました。ところが、いざ外の世界に出てみると、世間の大人たちは、何に対しても、ほとんど無反応でいるということが分かって、ショックを受けました。そして、このギャップをどうやって埋めればいいのか、ずいぶん長く苦労することになりました。」

 鶴見俊輔多磨霊園の鶴見家之墓に眠っている。

 俊輔の姉の和子は、紀州の海に散骨してほしいと希望して、海に眠っている。

 「もしも彼という存在がなければ、この社会のありようは、いまとはいくらか違ったものになっていただろうか。ともあれ、彼に限らず、ほかに替えられない生き方の一つひとつがあったことで、今の私たちの世界は、かろうじて、このようなものとしてある。そこからしか、これについて問うことができない。」

鶴見俊輔伝 <3>

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 鶴見は、どうせ戦争にとられるなら、海軍で働くほうがまだしもましかもしれないと、軍属のドイツ語通訳を志願した。行き先は日本軍の占領地、ジャカルタの海軍武官府。任務は、連合軍の短波放送を聞いて情報を得ること。士官用の慰安所の設営にあたったこともあった。

 黒川創は次のように書く。

 「(鶴見は)占領地の慰安所に通って、性欲を満たしたいとは思わなかった。現地人の娘を現地妻とすることもできたが、それにも躊躇が働いた。彼には、かつて自分のことを受け入れてくれた年上の接客業の女性たちに対して、あたたかな感謝の気持ちが残っている。だから、国や軍の権勢を背に、その威を借りて女性と関係を結ぶことには、心の抗いが働く。性(セックス)と国家は、彼の中で相容れないものとなって対立する。だから、むしろ、周囲の女性たちに眼球を向けないことに心がけ、心の反応を抑えて、自分の内部の秩序をかろうじて保っていた。」

 「軍から受け取る月給は65円、そのうち三分の二は母にあてて送金した。そうすることで崩れた暮らしをしていないことを証して、母を安心させたかった。あとの三分の一は本を買って読んだ。ジャカルタは日本軍が侵攻するまでオランダの植民地だったので、本屋や古本屋にヨーロッパの書籍がたくさんあった。」

 「この島への米軍による上陸戦が始まれば、殺し合いをすることになる。その時は自殺しようと、アヘンを楽しむ軍人からくすねて、隠し持っていた。」

 日本軍は軍事とは関係のないイギリスの商船を拿捕し、乗船していた人たちを殺してしまうという非道を行う。鶴見の心に終戦後もこの時の体験はくすぶりつづけ作品にも書いた。

 「あのとき、捕虜殺害の命令は、偶然にも自分の隣の同僚に下った。だが、その命令が自分に下っていたらどうしたか。自殺しただろう、と考えることはできる。だが、自殺が間に合わないということもありえた。逃れられないで、自分も捕虜を殺したかもしれない。だとすると、戦場で一度は人を殺した者として、自分は、その後をどうやって生きることになっただろうか。」

 

 鶴見は現地の古本屋で買ったタゴールの本を読んでいた。

 「なせ悪が存在するかという問いは、なぜ不完全なものが存在するかという問いに同じである。言い換えるなら、なぜ創造が行われるかという問いに同じことである。創造はきわめて不完全であり、斬進的なものであることを認めるほかない。」

 

 自分の人生における悪、創造の不確実性、個人もそうであり、社会も、国家もそういうものである。

 

  

 

 

 

 

 

鶴見俊輔伝 <2>

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1996年、鶴見俊輔はこれまで発言してこなかった戦場の慰安婦の問題について発言していた。このことについて黒川創が記している。

 

 鶴見はこう言った。

 「慰安所は、日本国家による日本を含めてアジアの女性に対する陵辱の場でした。そのことを認めて謝罪するとともに言いたいことがある。

 私は不良少年だったから、戦中に軍の慰安所に行って女性と寝ることは一切しなかった。子どもの頃から男女関係を持っていた、そういう人間はプライドにかけて制度上の慰安所にはいかない。だけど、18歳ぐらいのものすごい真面目な少年が、戦地から日本に帰れないことがわかり、現地で40歳の慰安婦を抱いて、わずか一時間でも慰めてもらう、そのことにすごく感謝している。そういうことは実際にあったんです。この一時間の持っている意味は大きい。

 私はそれを愛だと思う。私が不良少年出身だから、そう考えるということもあるでしょう。でも私はここを一歩も譲りたくない。」

 これについて黒川は書いている。

 「こういうことを言えば反発が起こるであろうということは、鶴見にもわかっていたはずである。逆から言えば、もう少し的確な言葉づかいはありえなかっただろうか、ということである。たとえば、従軍慰安婦という立場に置かれた女性から、戦場で死んでいく少年兵士に贈られたのは、ある種の『慈愛』なのだと言うことはできよう。あるいは、愛は愛にしても、エロスからは聖別されたアガベー(自己犠牲)という言葉を充てることもできるのではないか。もし、そうした配慮が用心深くなしえたならば、あれほどの反発は避けられたのではないかとも思える。にもかかわらず鶴見はそうしなかった。それは、あえて、『愛』という無防備な(つまり、ここにはエロスの意味までが含まれる)言葉を用いたことにこそ、彼の意志があったと受けとるほかはないということである。10代なかばで、カフェや遊郭で働く年長の女性たちの世話になり、彼女らから施された愛によって、かろうじて自分は救われ、今も生きている。ここにまじる悔恨とともに、彼女たちに感謝し、このことを忘れない。自分と同世代の死地に赴いた少年兵士たち、彼らに代わって、世話になった慰安婦の女性たちに、いま、お礼を述べておく。ーーまちがった振るまいであるのかもしれない。だが、それを承知で、このとき鶴見が言い残しておきたかったものは、そういった気持ちあったのではないか。」

 

 ぼくは、いかにも鶴見らしい思考であり、態度だと思う。慰安婦にされた女性たちの惨めさや苦悩、人生を蹂躙された悲しみは言葉にあらわしようがない。慰安婦にされたのは強大な圧力によってだった。それをもたらしたものは、軍部であり政治であり、戦争であり侵略であった。それを弾劾する精神は鶴見俊輔の最期まで燃えていた。そして同時に慰安婦への想いもまた深かった。

 

 

 

 

 

鶴見俊輔伝

 

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 12月21日の夜中に、「この本が面白い、読んだかどうか」というメールが息子から来た。これは23日のぼくの誕生日へのプレゼントだとわかったから、それよりも「鶴見俊輔伝」(黒川創)を読みたいと返事した。

 そうしたら23日、俊輔伝が送られてきた。550ページになる大作だ。

 今、読みたいと思ったところを読んでいる。

 こんな文章があった。

 「鶴見俊輔は言っていた。

 僧侶にも、神父や牧師にも、人間として好きな人はいる。だが、自分が死んだときには、そういう人たちも呼ばないでもらいたい。

 この日本という国では、戦争のとき、仏教もキリスト教も、宗教人たちはその動きに加わった。自分はそのことを忘れていない。

 自宅で、簡素なご近所葬をしてもらおう。会葬者は庭先からぐるりと自宅の周囲を回ってもらう。自分の遺骸は座敷に寝かせてあって、ガラス戸越に、最後の対面。

 たくさんいなり寿司を用意しておき、それを食べてもらって、おしまい。

  当日葬儀を手伝ってもらった人には、あとで近くのうなぎ屋で食事をしてもらう。」

 

 鶴見俊輔は93歳で亡くなった。葬儀は簡素なものだった。鶴見俊輔らしい最期だった。「鶴見俊輔伝」は、大佛次郎賞を受賞した。著者の黒川は、「思想の科学」の編集委員だった。哲学者、鷲田清一は、この著を、「鶴見の息遣いまで感じられる。自分の背中から刃を貫き、もし切っ先が余れば、相手の体にもとどくようにという、凄絶な批評精神の出どころの描写を讃えた。

 

 

 

「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」

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 久しぶりに古本屋に入ったら、あの本の背文字が目に飛び込んできた。

 不思議なんだなあ、向こうの方から飛び込んでくる。

 

 題名「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」(加藤陽子

 この本、新聞の広告欄で見た時、読みたいと思った。が、最近はほとんど図書館の本を読んでいて、図書館にこの本がなかったからそのままになっていた。

 本の値段を見ると、定価の三分の一。表紙の帯に鶴見俊輔京都新聞に載せた評の一部が書かれていた。

 「目が覚めるほど おもしろかった。こんな本がつくれるのか? この本を読む日本人がたくさんいるのか?」

 さらに帯に、小林秀雄賞受賞とあり、高校生に語る➖日本近現代史の最前線と書かれていたから、これは読まずにはいられない。購入した。

 加藤陽子は東大文学部の教授。こんなことを書いている。

 「私の専門は、1929年の大恐慌から始まった世界的な経済危機と戦争の時代、なかでも1930年代の外交と軍事です。30年代の歴史から教訓として何を学べるのか。」

 そして、高校生、栄光学園の生徒たちにこの歴史を講義する。講義すると言っても、教授として説を語るだけではなく、生徒たちに考えてもらいながら考察していく。

 1930年代というと、まさに「ケルン」が発行され、廃刊になっていった時代だ。

 希望から絶望へ、建設から破壊へ、急転直下に蹂躙していった時代。

 今のこの時代、なんだか寒い。世界も日本も、あの時代の寒さに似たものを感じる。

 いま、「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」を読んでいる。背中が寒い。心も寒い。

 

 

 

 

 

 

 

山岳雑誌「ケルン」 <2>

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 「ケルン」最終号の巻末に載せられた別れの言葉には、言葉にならない感情、言葉にすることへのためらいが感じられる。日本は、さらに言論統制を進め、反戦、反軍の思想も行為も、「非国民」として暴力によって弾圧されていった。昭和13年は、中国への侵略が本格的な戦いになっていた頃だ。「ケルン」を惜しむ人たちの声も、うかつなことは言えないという、恐れのようなものを感じさせる。この3年後、真珠湾攻撃が行われ、日米の戦争となって一瀉千里、亡国にむかった。

 さらに数人の別れの言葉。

 

田中薫

 かつてスコットランドの荒涼たる山頂のケルンに、誰が残したのか、野菊の花の捧げてあるのを見て、故国の石地蔵に赤い彼岸花のあげてある風情を思い浮かべた。「ケルン」が年若くして最終号を刊行するに立ち至ったと聴き、私は尊き標石の前にそっと五月の野花を置いて瞑目したい。

 「ケルン」は、華やかなる時代におけるよりも、わびしかりし最近の時代において、最も高き価値を持っていたと信ずる。大衆雑誌がゴシップと案内記の坂を転落していった後に、小さくはあれど毅然として孤塁を守ってきたのが(ケルン」であった。

 時局は世の姿を変えつつある。不急なものの多くは国策に沿うものであっても失われていく。

 

坂倉敬三

 いよいよお別れかと、「ケルン」を包み覆う時代の霧を悲しまずにはいられません。しかしそれはひと時の霧でしょう。やがて霧晴れ、雲沈んで、再び青空の下、山恋う者の道しるべとして、私の前に浮かび出てくることを信じます。

 

竹内亮

 「ケルン」は積まれ始めた。しかし、それは苦闘の連続であった。来たるべきものが来たと思ったと同時に、よくも60号の「ケルン」を積み得たと、同人諸岳兄の健闘に心からの感謝を捧げる。

 

        △    △    △

 

 「ケルン」が廃刊になるまでに、すでに二つの山岳雑誌が廃刊になっていた。(ケルン」は関西系の山岳雑誌であった。大正から昭和の初期、神戸だけでも66の登山団体があったと書かれているから、85年前の日本の登山愛好には驚嘆する。

 「ケルン」創刊号(昭和8年)の巻頭の言葉は次のように詠った。

 「さあ、ケルンを積もう。君たちの協力を待って。一つずつ小石を集め積み重ねることにより、少しでも大きく、高く、頑丈に築き上げることは、山登る仲間のもっとも恵まれた心踊る瞬間である。もちろんそれは、朝な夕な、アルペングリューエンに映える巨峰の頂に建つ記念碑に比すべくもなく、きわめてささやかなものであるにせよ、心をこめて守り、愛さるべきものなのだ。‥‥

 私たちは、今ここに、一基のケルンを積む余地を見出し得たことを喜ぶ。

 さあケルンを積もう。山を機縁としてつながるお互いの「協力の美徳」の表徴として。」

  

 

山岳雑誌「ケルン」

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 今から81年前、昭和13年(1938年)6月、月刊誌「ケルン」が60号で廃刊になった。

 朋文堂から出ていた月刊の山岳雑誌だった。昭和8年から5年間、60のケルンを積みかさねてきた「ケルン」も、大陸への侵略を推し進める戦時の風雲に倒された。

 ケルンという言葉は、アイルランドスコットランドで使われていたゲーリック語に由来する。山野に石を積み重ね、境界にしたり、道標にしたりした。

 「ケルン」第一号の巻頭は、

 「さあケルンを積もう! 君たちの協力に待って、一つずつ小石を集め、積み重ねることにより、少しでも大きく、強く、頑丈に‥」

と呼びかけた。(ケルン」には、登攀記録、岳人紹介、山岳研究、随想、生物・気象などの自然研究、文学などが掲載された。稀有の雑誌だった。

 「ケルン」最終号には、たくさんの人の、廃刊を惜しむ声や感謝の言葉が寄せられていた。編集部は、次のような文を載せた。

 「支那事変起きてよリ本務は繁劇化し、『ケルン』に割きうる時間は激減した。今や近い機会にこの情勢の転化を見難きことが明らかになった。国はあげて長期戦下にあり、時局と共にわが山岳界の生長層が雌伏期に入ったこともピリオドを打つ上での一つの認識である。」

 寄せられた別れの言葉のなかから、いくつかの文を抽出しよう。

       △   △   △

吉沢一郎

 「ケルン」はついに斃れた。しかし再び「ケルン」を要求すべき時代は必ず近き将来に来るものと思う。「ケルン」の踏み来たった道は正しかった。その正しさ故に、これを支持し得ぬ日本登山界の現状を悲しむ。

黒田初子

 非常時だと何故に山の本をやめなくてはならないのでしょうか。非常時にこれを役立てるのが国家のためになるのではないでしょうか。嵐に倒された「ケルン」の再び山頂に積まれる日を待ちましょう。

粟飯原健三

 出征せんとしている私にも、「ケルン」廃刊は耐え難い。今日の多難な生活に心の潤いを与えてくれたのは「ケルン」だけであった。北支の第一線にあある山友だちへ送った(ケルン」が心から喜ばれた。その気持ちがよく分かる。

                (つづく)