生きる力

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 今では日本の炭鉱はほとんどつぶれてしまったが、石炭がまだ盛んに採掘されていたころは、劣悪な労働現場で事故も多発した。

 60年安保闘争が激烈に闘われたころの、三池炭鉱における三池闘争が戦後最大の労働争議となり、あげくが1963年、死者458人を出す炭塵爆発が起きる。炭鉱には在日朝鮮人労働者がたくさんいた。日韓併合後、朝鮮半島からたくさんの労働者が日本に徴用された。日中戦争勃発後の数は72万人とも、111万人とも言われている。そのうちの34万人余が炭鉱労働者になった。1932年、麻生系炭鉱で朝鮮人坑夫の争議も起きる。そこでは坑夫全体の四分の一が朝鮮人だった。麻生は、麻生太郎の家系である。そういう家系から政治家が出てきて首相になった。

 日本と世界の近現代史を今の日本人はどれほど知っているだろうか。学校教育では日本の近現代史をまともに取り上げていないから、何も知らない若者がほとんどだ。ヘイトスピーチを禁止すると法律で決めても、日本近現代史を知らないから、日韓の問題も日中問題も理解できないままに、単なる言葉の禁止問題になってしまっている。。

 

 

 かつて芥川也寸志(作曲家、指揮者)がこんなことを語っていた。

 

 「歌をうたうことにより、社会認識をもったり、人間生活を深く知るようになった例は多い。

 北海道のある炭鉱で、ストライキをやったときの話ですが、そのとき炭坑夫たちが歌をうたった。劣悪な環境のなか、おかげで、何日間も元気でいられた。炭坑夫たちは、雨の日も、風の日も歌った。歌の聞えない日はない。

 その人たちは、楽譜もよめない人たちだったのに、みんなで歌うようになった。そういう人たちは、歌の本質をつかんだのだと思うのです。音楽というものは、こういうものだ、ということを、はっきりつかまえたわけです。」

 生きるか死ぬか、それほど苦しい労働、日の射さない現場で、生きる力を保つのは、仲間とのつながりだった。歌が上手だとか下手だとか、そんなことは関係ない。歌うことで、人の魂が共鳴していくのだと思う。仲間の声を聴く、自分も声を発する、そこに現れてくるのは、生きる力なのだ。

愛車

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 僕の乗っている車は、三菱の軽の荷物車で、十年前に中古車で買ったものだ。印刷屋さんが十年ほど仕事で使っていたもので、結構使い込んであったからタイヤはかなり擦り減っていた。整備費やら何やら全部入れて20万円だった。運転席と助手席の後ろに、二人座れる折り畳み式の簡易席があるが、いつもはそれを倒してあるから、軽ながら荷物を載せる空間が広くなり、便利だ。これで離れたところにある畑に、鍬や堆肥を積んで行くし、収穫した豆を載せて運んだり、店から材木を助手席まで突っ込んで持って帰ってきたりする。今も、荷台に鶏糞の入っていた袋やスコップが積んである。

 マニュアル車だから運転も安全で、ブレーキとアクセルの踏み間違いなど起こらない。高齢者はマニュアル車がいい。不必要なものがついていない、簡素そのもの、いいねえ。最近の新しい車は、いらんものが付いていて、便利なのかどうなのか、複雑怪奇、だから金額も高いし、もうややこしい。うんざりする。

 このボロ車、残念ながらエアコンがうまく効かない。冷房にしても温風が出てくる。だからエアコンを使わず、窓を開けて自然の風を頬に受けて、いよー、いくぜよー、緑の薫風、甘い草の香りだあ。

 一年に二回、夏タイヤと冬タイヤの履き替えをするが、これも自分で簡単にできて、楽ちんだ。タイヤは持ち運びするのも軽いし、付け替えの作業も簡単至極、時間もかからない。

 しかし、この愛すべきボロ車も、あまり頼りにしないようにして、少々のところなら、自転車で行くことにしている。2,3キロの距離にある店や図書館へは、自転車がいい。行きは下り道、スイスイ。帰りは上り道、うんこらしょ。自転車は三段切り替え、いちばん遅いギヤにして、帰ってくる。これがいい運動だ。小鳥が僕を見て、ピヨー、ピヨーと冷やかしてくる。かわいいねえ。

 

モズのヒナ、元気です

 

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 巣立ちをしたモズのヒナ、無事外敵におそわれずに生きている。

 あれから何日たつだろう。十分飛ぶ力もないのに早い巣立ちをして、ヒナは冒険をしてきた。無事に生きることができているのは、親鳥が見放さなかったからだ。ヒナは二羽、それぞれ我が家の庭と周辺にいて、あちこち飛び回ることができるようになったが、餌を自分で見つけることができない。モズは虫やカエルなど小さな生き物を食べる。食欲旺盛なヒナたちに十分な餌を親鳥が捕って与えるのは大変だ。まだそんなに虫がいない。水田では餌は捕れない。親鳥は行動範囲を広げて、餌を見つけてくる。

 ヒナはあちこち飛び回るが遠くへは行かないようだ。今日は剪定して積んである枯れ枝の上に二羽ならんで親を待っていた。親が帰ってくると、小さく羽ばたいて、短くチチチチと鳴く。一度、親鳥がヒナの横に来て、何やら伝えたようで、それはどうも、

「もう独り立ちしなさい」

という、親離れの催促のように見えたからてっきりそうだと思っていたら、なんのことはない。ヒナは相変わらず、あちこち木を移動しながら、親を待っている。餌が十分でないからだろうか、体がまだ小さく見える。

 それにしても鳥の餌になる小動物があまりにも少ない。

カッコーとホトトギス

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柳田國男の「遠野物語」の序文に、

 「この話はすべて遠野の人、佐々木鏡石君より聞きたり。」

と書かれている。岩手の遠野郷は花巻から北上川を渡り、東へ十三里行ったところにある。遠野の「トー」は、もとアイヌ語の「湖」、遠野郷は大昔、湖だったという。

 「遠野物語」には、小さな話が集められている。その第53話は、カッコウホトトギスの話である。

 

 「郭公と時鳥とは昔有りし姉妹なり。」と、第53話は始まる。

 文体は文語である。現代語訳すると、こういう話だ。

 

 「郭公(カッコウ)と時鳥(ホトトギス)という姉妹が大昔いた。カッコウは姉であったが、あるときジャガイモを掘ってきて焼き、イモのまわりの堅いところを自分が食べ、中の軟らかいところ妹に与えたところ、妹は、姉の食べているところはたいへんおいしいんだと思って、包丁で姉を殺してしまった。とたんに姉は鳥となり、ガンコ、ガンコと啼いて飛び去っていった。ガンコは方言で堅いところということである。妹は、さては姉は私によいところだけをくれたんだと思い、悔恨に堪えられなくなり、やがて妹も鳥になり、包丁かけたと、啼いていたという。遠野では、時鳥のことを包丁かけと呼んでいる。盛岡あたりでは、時鳥は、どちゃへ飛んでたと啼くという。」

 ガンコ、ガンコは、 カッコー、カッコー

 ホウチョウカケタは、 テッペンカケタカ

 僕が南河内に住んでいた小学六年の時の担任、北西先生は、ホトトギスは、「ホッチョンカケタカ」と鳴くと言った。 鳥の声を人間の言葉のように聞くことを「聞きなし」というが、ホトトギスの鳴き声の聴きなしには「てっぺんかけたか」と「特許許可局」というのがある。「トッキョキョカキョク」、なるほどそう聞けばそう聞こえる。

 大和に住んでいた時、初夏になるとホトトギスがよく聞こえる声を響かせて啼きながら空を飛んで行った。夕暮れ時になると、ヨタカがキョキョキョキョと空の一点で啼いていた。夕風が涼しく、山から下りてくる空気は甘かった。

 信州に住んで、カッコーをこの季節のみよく聴く。ホトトギスとヨタカはその声を聴くことはない。「土食うて 虫食うて 口しぶい」と聞きなすツバメの飛ぶ姿が少なくなった。

 

畑の会話

 

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 今朝は5時に起きた。朝飯まで2時間はある。気温が低い。そうだ、あれをやってしまおう。ランとの散歩で、遠くまで歩くのをやめ、近くに借りている畑に行った。ランは畑の横につなぎ、ジャガイモの芽かきをやりきることにした。あれこれやることが多くて、ジャガイモの芽かきに手が回らないままに日にちが過ぎた。ジャガイモはもう20センチほど伸びている。一株の芽の数が5本や6本もにょきにょき、それを2、3本に減らす。芽かきをしないと、一個のイモが大きくならない。

 隣の畑を借りているKさんが、すでに来ていて草取りをしていた。

「えらい早いですねえ」

「家にいるより、土に親しむほうがいいですね」

 Kさんは肺の病気で、病院で治療してもらっているが症状は治らないと医師に言われているそうだ。

「体が欲していることをしたほうがいいですよ。畑がいいと、体が言うんですよ」

 会話を交わしながら鎌を手に、草とジャガイモの新芽を欠いていった。ジャガイモの株の間にアカザがたくさん伸びている。

「カヤマさんが、アカザをさがしていましたよ。アカザの茎にトマトの苗を接ぎ木するそうです。」

「えっ? このアカザが接ぎ木の台木?」

「そうらしいです」

「じゃあ、これ使ってもらえるといいですねえ」

「アカザを探しておられたのは、少し前ですけれど。」

会話は健康の話になった。

「ぼくは毎日、EM菌の入ったものでね、シュワサカサンとか言うのを、家で発酵させた液を毎日少し飲んでいるんですよ。腸の調子がすごくいいですよ。腸が健康になれば、体全体が健康になりますよ。」

 Kさんは、体を乗り出してきた。

「原液はもらったんです。それを使って増やせるんです。EM菌は乳酸菌とか体にいい働きをしてくれる菌をいろいろ混ぜたものでね。作り方はね、2リットルのペットボトルに、安曇野の地下水をくんできて、それに岩塩の粉と沖縄の黒砂糖を入れて、原液を入れ、よく振って、温かいところや日向で熟成させるんですよ。飲めば快便ですよ。腸内が元気になりますよ。Kさんも作って、飲みませんか。原液をあげますよ。熟成していないときは、飲めばガスがでますよ。

 ガス、すなわちオナラです。熟成するとオナラは出なくなります。」

「それ、ほしいです」

「じゃ、原液、おうちに持っていきます。」

7時前、ジャガイモの芽かきと草かきは終わった。今日は気温が低い。曇りだ。

 

 

 

強風にバラのアーチが倒れた

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稲田の中の数軒家、ときどき強風が吹く。

 廃材の丸太を使ってバラのアーチを作ったのは十年ほど前、朝起きるとそれが風で倒れた。これから花を咲かせようと、つぼみをつけていたのに、さっぱりワヤや。

 この強風にバラのアーチが耐えられなかったのは、バラの木にかかる風圧が大きかったことと、アーチの木が腐食していたためだ。何十年か前に、稲刈りしてそのイネをかけて干すハザという長い丸太、もう今では使わないから、軒下などに積まれたままになっているのがあり、近所からそれをもらってきて、畑の支柱にしたり、庭の木の支柱にしたりしている。その内部で組織の腐食がすすんでいた。

 最初に作ったとき、土に接する基礎のところは、ごろた石を拾ってきて、練ったコンクリートで固めたのだが、その頑丈なはずの基礎が、強風で倒れた支柱によって、破壊されていた。

 恐るべき強風。

 この倒れたアーチの修復に昨日は一日かかった。バラのとげが、チクチクささるから、背丈より高いバラの木を元に戻すのは、やりにくい。

 まだ半分作業が残っている。

 満開だったモッコウバラとシロバラは、強風で花がかなり散ってしまった。

 以前住んでいた奈良の金剛山麓では、強風は少なかったが、吹けば西風が多かった。この安曇野では、南からの強風が多い。美濃から木曽谷を駆け上がり、松本平を吹き抜け、安曇野から白馬へ、そして姫川に沿って日本海へ吹き降りていく。

 今回の強風は、南西の風だったからバラのアーチを直撃した。

 モズのヒナ、生きているかな。

ヒナを発見してまた失敗

 

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 モズのヒナは、その後姿が見えなかった。逃げ込んだ菜花の茂みを調べてみても、姿はなかった。もう生きてはいないかもしれん。餌を食べないで、どこかに潜んでいても、この異常な暑さのなかだ。

 そして今朝のこと。

 工房の西側に材木置き場として庇を出しているところがある。そのなかでヒナを発見した。ぼくの目の高さの棚状のところ、木材の影に隠れるように、ヒナがじっと動かずにいる。心なしか痩せて、一回り小さくなっているように見える。お前、こんなところに飛び上がることができたんか。

 生きていた、よう生きていた。

 しかし、ここにいても食べ物はなし、どうするの?

 そうだ、キャベツの葉を食っている青虫を餌にやろう。いい思い付きだ、とキャベツの畝に行って、葉っぱを調べたら一匹2センチほどの青虫がいた。それをつかまえ、細い枯れ枝を箸にして虫をつまみ、ヒナのところにもっていった。親鳥でなければ餌は食べないだろうから、親鳥のまねをして、チュウチュウと舌で音を出しながら、青虫をくちばしに近づけると、ヒナはまったく反応がない。もう一度、くちばしに触れるまで持っていくと、ヒナはぱっと飛んで畑の中に降り、またまた姿をくらましてしまった。

 風が強くなっていた。午後から雨になるようだ。

 しまった、とんでもないことをしたぞ。これから天気が荒れる。せっかく安全なところに隠れていたのに、またも危険にさらしてしまった。

 ひょっとしたら、さっきいた場所は親鳥も承知の一時避難の仮の巣で、そこへヒナを連れて行って餌を運んでいたのかもしれない。それを、ぼくは壊してしまった。余計な手を出して、危険をもたらしてしまった。

 親鳥よ、ヒナを発見して、も一度、安全な場所に連れて行ってくれ。心がチクチク痛い。余計なおせっかいをしたぞー。