キャベツ畑

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 去年の秋にたくさんできたキャベツの苗が、無事に越冬し、まだ虫がつかない春先に一本ずつ独立させて、球を結ぶように育ててきたところ、ぐんぐん大きくなった。四月にモンシロチョウが舞いだし、キャベツはチョウの大好物だから、卵を産む前に防ごうと、畝一面に虫除け網をかぶせた。

 これで安心、もうチョウは卵を産めまい、虫取りをしなくてもいいと、高をくくっていたら、虫除け網の下でちゃーんと青虫は大好物のキャベツの葉を食べていたことを発見、これはもう口あんぐりだった。いったいモンシロチョウはどこから網の中へ入ったのか、もし地面との間の1センチほどの隙間から入ったとしたら、モンシロチョウは卵を産んだ後網の中に潜んでいるか、死んでいるかしているだろうが、そういう様子が全くないから、網をかぶせる前にチョウは卵を産んでいたにちがいない。

 青虫は葉っぱを食べていた。キャベツの芯の部分を食べていたりもした。これでは肝心のキャベツが巻くという状態にならない。これは一大事。

 それから50本ほどもあるキャベツの株一本一本を調べて虫取りをすることになった。網をどかして、キャベツ一球ずつ中も葉っぱの裏も全部調べる。卵からかえったばかりの青虫はミリほどで、大きいのは4cmほど、もうサナギになっているのもいる。虫を指でつまむと気持ちの良い柔らかさだ。

 虫取り、これが日課になった。全部調べるのに一時間はかかる。

 昨日の夕方のこと、キャベツ畑の端のなかに、ぱたぱたと動くものがある。なんと小鳥だ。小鳥が虫除け網のなかで出ようともがいている。なんで、こんなところに入ったんかね、出してやろうと網を外していると、小鳥はどうも雛鳥らしい。くちばしの付け根が黄色い。翼も短い。雛鳥はピイピイ鳴いて暴れまわった挙句、外に出て跳ねるように飛び、草むらの中に入って姿が見えなくなった。

 何の鳥だろう。近くの木にモズが止まって、鳴いている。そうか、モズの子だったか。子が巣からいなくなったから探しているようだった。しばらく観察していると、雛鳥が菜花の茂みの中からとびだし、またその中に消えた。親鳥はそれを認めて、飛んできて鳴いていたが、救出は困難なようだった。

 夕暮れが迫っていた。親鳥はまだ子を呼んでいる。無事にヒナが親元に帰れないで一晩そのままの状態で餌も与えられなかったら、命は危ない。

 

 けさ、菜花の茂みから地面低く、飛ぶ鳥がいた。あのヒナが飛べるようになったのかもしれない。そうであったらうれしい・・・。

狭山事件の意見広告

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先日朝日新聞に、一面全体の意見広告が出ていた。

 「56年間、無実を訴えつづける人。石川一雄80歳。

 石川さん、無実です。狭山事件の裁判のやり直しを求めます。」

 石川一雄さんの写真も出ている。

 あー、狭山事件の闘争はまだ続いていたのか。僕の頭に半世紀前がよみがえった。石川さん、こんなになったか。頭はすっかりハゲている。細めた目は視力の衰えを感じさせる。

 28歳の僕は、被差別部落の子どもたちが通う中学校に赴任し、その地で13年間教職についていた。そこで僕は教職員組合の活動に積極的に参加し、部落解放運動の熱と光に触れた。根底に部落差別をはらんだ狭山事件は、弁護団、学者、人権団体による究明と現場検証によって、多くの矛盾と疑問が掘り起こされ、冤罪事件として大きな闘いの対象となった。闘いは、部落解放同盟だけでなく、全国的な労働組合が結集した。しかし判決は、第一審が有罪、死刑だった。裁判は最高裁まで行き、最後の判決は有罪、無期懲役だった。石川氏は裁判の最初から無実を訴え続けていた。31年と7か月の獄中生活を経て、石川氏は仮釈放された。この仮釈放の時、僕が抱いた疑問は、明白な有罪であればそうはならないのではないか、司法界に何らかの良心の呵責があったからではないか、という想いだった。そして高齢の石川さんが一応の自由の身になった時から、狭山事件のことは僕にとっては遠い記憶になっていた。

 2019年5月、この事件は生き続けていることを知った。

 そして、その意見広告の下に並んでいる広告の賛同団体を見て驚いた。そこに並んでいる労働組合は、かつて自由と正義と人権を守る炎の闘いを展開していたなつかしい労組の名前だった。

 自治労日教組、私鉄労連、国労、全農林、日放労、‥‥

 それはまた一つの驚きであった。今や、労働組合は健在なりと、自信を持って言える団体があるのかという悲観が日本をおおっていると感じていたからだった。

 労働組合が健在でない、あるいは弱体化し存在しない企業、官公庁、学校は、どういう質や構造をもつようになるか、それは明々白々だ。僕の地域の市役所や地域の学校にもそれを感じる。

 

 この一面広告に希望を感じる。それとともに、もやっとした不安と危惧も感じる。

 

 

 

 

 

生命のコミュニケーション

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今朝、カッコーの初鳴きを聴く。

遠くから聞えてくる、カッコー。

聞き逃すことのないたったの二音、カッコー。

ナツキタ、カッコー、ナツキタ、カッコー。

 

クロウタドリのように複雑なメロディを歌う鳥もいて、

簡単な声もいて、

鳥たちもその種族の歌を持つ。

生命をつなぐために、パートナーを呼ぶ歌。

 

他の多くの動物も、種族の鳴き声を持ち、

声かけあって生命を維持しあう。

匂いを出したり、音を出したり、

信号を送る。

 

植物は、声を持たないが花を咲かせる。

花の香りを放つ。

麦が穂をつけて風になびいている。

アイリスの黄花、紫花、あぜにカラスノエンドウの赤紫、

コデマリの白花、モッコウバラは黄花、

花は植物のコミュニケーション。

 

野にあふれる 緑、

鳥歌い、花咲く。

種ごとにちがう豊かな生命活動。

 

人間は民族ごとに自分たちの言葉を持ち、

民族を超えて会話のできる方法を持ち、

会話は、生命のコミュニケーション。

 

田中正造の予言

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 田中正造が、こんな言葉を残していることを、赤堀芳和「欲望の世界を超えて やすらぎの国はいずこに」(講談社)で知った。田中正造(1841~1913)

 

「今日の日本の、日本の惨状に至りたるも、決して一朝にあらず。

 正造に言論の自由なきがごとし。

 故に略して申さば、種々の亡国に至るの原因はあれども、

 国民として国土の天産と自国の長所を捨てて、

 一も二も、何もかも、付加随心、

 長も短も皆、西洋にかぶれ、

 ついに畳の上に泥靴にて駆け上がる滑稽の有り様より災いの入り来たりものにて、

 日本の亡国は、我を知らずして、ただ呑噬(どんぜい)を事とする亡国なり。」

 

 晩年の感慨だろう。自然との共生が日本で滅び、いたずらに富国強兵にまい進して侵略国となり、これはもう亡国に至ると、明治の終わりのころに予言していた。

 「一も二も、何もかも、付加随心」とは、大勢に逆らわず、従っていく、自己保身や利益を得るために、力を持つものに従っていく、忖度する。右へならえ。

 「呑噬(どんぜい)」は、「他国を侵略してその領土を奪うこと」。日清戦争日露戦争韓国併合第一次世界大戦によって領土を広げることに成功した大日本帝国

 その結末が敗戦。帝国崩壊。

 そしてその後の日本は如何。未来や如何。

 

 

野の記憶     <16>

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 野の記憶 (「安曇野文芸2019・5」所収・改稿)

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 1974年刊行の小説「安曇野」に臼井吉見が書いている。

 吉見は陸軍の少佐として本土防衛の任に就いていて敗戦を迎えた。軍は解体され、吉見は安曇野の我が家に帰ってきた。そこで見たのは、戦時中に伐採された屋敷林だった。

 「田圃を越えて、生家が見えてきたとたんに、僕の目を驚かせたのは、森に囲まれたみたいだった家が、まるで羽をむしられた鶏のように、秋空の下にむきだしに近い形で、屋根屋根をさらしていることだった。屋敷の門口の左右にそびえているはずの二本のケヤキが姿を消している。ほかにもケヤキの23本、杉や栗の10数本も見えない。

 二階から駆け下りてきた妻と顔を合わせると詰問した。どうしたんだ? 誰が伐ったんだ? 」

 何度も詰問されて妻は答えた。軍用の木造船をつくるとかで供出させられたと。吉見は無性に腹が立った。

 「子どものころから村一番のケヤキだった。秋が近くなれば、何百羽とも知れぬレンジャクの大群が渡ってきて、この二本の大ケヤキで羽を休ませ、ひとしきり盛んな評定をやってから再び飛び立つのだった。あの羽の黄色は僕の好きな色だった。葉が散りつくして枝を網のように空に広げるころになるとモズがやってくる。粉雪が降るころになると、ツグミの番だ。彼らは五、六羽ずつで訪れては二時間でも三時間でも遊んでいく。年が明けて姿を見せるのはホオジロで、たいてい一羽でやってくると、春の近づく喜びを知らせるかのようにさえずりつづける。一斉に新芽をふいてケヤキの全身が柔らかな緑に包まれると、一枚一枚の葉っぱが命が鼓動するかのように、ふるえやまない。葉ずれのそよぎも見られない炎天下には、盛んなセミしぐれが聞かれた。冬の夜空を仰いでも、このケヤキの梢にかかった星くずがことのほか美しかったように思えてならない。」

 

 臼井吉見は、かけがえのない宝だった屋敷林のケヤキの思い出を詳しく描写している。そして切り株に腰を下ろして彼は思う。自分が本土決戦に備えて軍務に就いていたときは、このような暴挙のさらに何千倍、何万倍にもなるような暴挙を、九十九里地域でやってきた、あの地域の住民にどれほどの痛みを与えてきたかという自責の念だった。

 

 九州水俣で不可解な病気が起こり始めたのは1940年代の初めで、アジア太平洋戦争が熾烈を極めるころだった。水俣の海の魚を食べた人にそれが発症し、原因物質はチッソの工場廃液、有機水銀であることを公式に認められたのは敗戦から11年も経ってからだった。

 「子どもたちは真っ裸で、舟から舟へ飛び移ったり、海の中へどぼんと落ち込んでみたりして遊ぶのだった。夏は、子どもたちの上げる声が、蜜柑畑や夾竹桃(きょうちくとう)や大きな櫨(はぜ)の木や石垣の間をのぼって、家々に聞こえてくる。」

 石牟礼道子は「苦海浄土」に書いた。美しい海の時代。

 命豊かな海は子どもの天国。子どもたちは夏の日盛り、潮の香のなかを叫び声をあげて遊び戯れた。その海を大企業チッソは死の海に変えた。チッソの廃水によって毒をまかれた海の、その毒を蓄積した魚を食べた人たちは体を壊され命を奪われ、海には漁民の姿はなく、遊ぶ子どもたちの声も消えた。「苦海浄土」を書いた石牟礼道子は終生「水俣」に寄り添って生き、水俣病患者の生と死を聖なる文学に結晶させたのだった。

 石牟礼道子と同時代を生きた詩人、茨木のり子は怒りからの希望を詠った。

 

  どこかに美しい村はないか

  一日の仕事の終わりには一杯の黒麦酒(びーる)

  鍬を立てかけ籠を置き

  男も女も大きなジョッキをかたむける

 

 僕はいま、毎日野を歩く。ある日、西の空が夕日に染まった。それを見たとき、ムンクの絵「叫び」が頭に浮かんだ。真っ赤な空、耳を抑えて叫ぶ男の姿。不気味な絵が叫んでいる、孤独と絶望を叫んでいる。

 そう思ったとき、絵の赤い雲の中からチェルノブイリの石棺とフクシマの残骸が僕の頭に浮かんできた。

 

 安曇野のど真ん中に立って僕は考えた。東に美ヶ原、西に北アルプス。雪残る連嶺。爺ヶ岳の「種まきじいさん」の雪形が見えた。

 

春だ、春はスプリング、SPRING、

スプリングは泉だ、

スプリングはバネだ、

噴き出す、跳ぶ、芽を出す。

春は命だ。

草や木が新緑に輝いている。

春は泉、ばねのように大地から湧き出づる。

 

 何をすればいいのか。

 何をしなければならないのか。

 

 まずは野に出よう。

 野を歩こう。

 頑丈な木のベンチ作って近くの道端に置こう。

 老いた人も、障がいのある人も、孤独な若者も、家から出よう。

 あちこちに置かれたベンチに休みながら野を行こう。鳥たちの声を聴きに行こう。

 魂の居場所へ、

 そこから始めよう。

 

野の記憶     <15>

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野の記憶 (「安曇野文芸2019・5」所収・改稿)

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 東京小平市は、武蔵野台地の西側に位置して緑が濃かった。市内の公園にも玉川上水の遊歩道にも豊かに木々が生い茂り、都営住宅を雑木林が覆う。この緑の街に魅かれて哲学者、国分功一郎は移り住んだ。ところが街の雑木林をつぶして道路を建設するという行政案が出た。国分は行政の説明会に行ってみると、それは住民の理解を得たという名目をつくるための「市民説明会」だった。地域住民を何人かメンバーに入れた「審議会」なるものも、一応市民の意見を聞いたという体裁をつくるために使われるが、その内実は住民自治とは程遠く、主権者の市民は決定過程からはじかれている。その正体を知った国分の活動はそこから始まる。が、市は行政プランを進めた。彼は著書「来るべき民主主義」で問うている。「主権者たる国民が決定権を持ちえないで民主主義と言えるか。」

 行政は言うだろう。「市民の意見で政治を行っている、政策は議会にはかり、議員の審議で決定したものだ」と。 では、その議員と議会の実態はどうか。

 「お役所仕事」という言葉がある。古くから使われてきた言葉で、役所の体質を皮肉る言葉だが、今も深刻な実態がある。

 行政をあてにするな、市民で動こう、だが困難は資金だ。市民運動は身銭を切らねばならない。役所は税金をにぎっている。じゃあどうする。

 武蔵野台地の北西に狭山丘陵がある。そこでは「公益財団法人 トトロのふるさと基金」によるナショナルトラスト運動が進められている。「一人の百万ポンドよりも、百万人の一ポンド」を合言葉に広く人々から基金を集め、自然環境や歴史的遺産を買い取って守る、イギリス発祥の活動。

 「トトロのふるさと基金」は次世代のために土地を取得し、森と歴史・文化の保護を進め、これまで四十八ヶ所のトトロの森が誕生した。基金は九億円を超える。埼玉県も「緑のトラスト協会」をつくり、自然や貴重な歴史的環境を県民の財産として保存していくためトラスト運動を展開しているという。

 僕はそれを自分の目で確かめたいと思う。

野の記憶     <14>

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野の記憶 (「安曇野文芸2019・5」所収・改稿)

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  日本では歴史的に「広場」がつくられなかった。古代ギリシア都市国家の中心街には広場がつくられ、市(いち)が立ち、市民はそこに集い、政治,哲学などを論じ合い、市民総会も開かれた。デモクラシーはこの市民の広場での集まりからうまれてきた。が、専制国家は権力者の権力誇示に広場を統制した。日本には街の中に広場がない。

 スペインを旅し、バルセロナの大聖堂前広場に行った。お昼の時間帯になると、楽団がやってきて楽器を取りだし、人が集まってきて手荷物を持っている人はそれを広場の真ん中に置いた。演奏が始まると、地元カタルーニャの民族舞踊の輪ができた。フランコ独裁政権による弾圧の下でも、カタルーニャの人々は各地のカテドラル前の広場で自治を象徴する民族の踊りを絶やさず、今も踊りの輪ができる。

 

 日本を愛し「ニッポン景観論」を書いた東洋文化研究者のアレックス・カーは、歴史的風土や文化の変わりゆく日本を憂い、日本の暮らしの文化を受け継いでいく活動をする。ヒッチハイクで日本中を旅し、旅の途中で訪れた徳島県祖(い)谷(や)に感銘を受け、三百年前のわらぶき屋根の古民家を購入し、そこを拠点に「NPO法人篪(ち)庵(いおり)トラスト」を設立した。宿泊客の六割は欧米などから訪れる人である。彼は言った。「官僚機構と土建経済によって、日本は立ち腐れてしまった」。

 阪神淡路大震災で被災した作家の小田実は、市民による復興に取り組んだ。だが、神戸市の計画は市民の願いとずれていて、市の計画は、道路を拡張新設し建物を高層巨大化するものだった。住民の願う復興は、安心して歩けて、歩いて用がたせる愛着のある街だった。車がないと用がたせない都市は都市ではない。神戸松南地区の住民は自分たちで「復興町づくり憲章(案)」をつくった。生き残った者の体験を掘り起こし、震災前の街の記憶を呼び戻す。そこから憲章を練った。過去を捨て去る都市計画ではなく、震災前の生活と亡くなった人びとの記憶を大切にしながら、麗しい街の復興をめざす。震災の体験を活かし安全な住宅を確保し、災害に対してしなやかに強い街をつくろう。だが住民の憲章は生かされることなく市の計画は進められた。

 小田実は、「日本の民主主義は形骸化している」と痛烈に批判した。傷ついた人が未来へ生き続けるための必要条件とは何なのか。