従軍作家、火野葦平の生き方

 

 

 

 渡辺考の著書、「戦場で書く」は、火野葦平と従軍作家たちの記録だ。この著作を元にしたドキュメンタリーが、2013年に「NHKスペッシャル」で放映されていた。

 日本が中国やアジアの国々を侵略したとき、作家たちも従軍し、戦地や戦争の様子を記事にして日本に送った。国の支配者は、戦意高揚を目的としていた。

 火野葦平はその一人で、「糞尿譚」や「麦と兵隊」、「土と兵隊」を書いたけれど、中国での日本軍の行為を見て、「大東亜共栄圏」の理念には賛同するが、日本軍の行動は明らかな侵略であると感じていた。

 日本は敗北し、十年後に、火野は中国を訪れる。そして自身の戦争責任を強く感じ、自分は日本軍国主義の手先だったと、自己を断罪した。旅の後、火野はこう述べている。

 「真の平和への意志が強固であれば、破滅の戦争を避けることができるような気がする。どんなことがあっても、戦争をくり返してはならない。」

「戦場で書く」のなかに、火野が従軍した「インパールで見た現実」がある。

 「インパール作戦」は、日本軍がミャンマーからインドのインパール攻略を目的に、食糧もない中の行軍であった。司令官は牟田口中将、日中戦争の引き金を引いた男だった。

 戦場は陰惨を極めた。飢えのうえに豪雨が襲う。泥濘のなかの行軍によって、次々と餓死者、病死者が出た。火野は書く。

 「全身血まみれの兵、杖を突いてよたよたと歩く兵、顔は原形をとどめず、唇がだらりと垂れ下がり、倒れる兵、私の腹わたは煮えくりかえった。」

 兵たちの間で、牟田口司令官への怒りが渦巻いていた。彼は兵たちに言う。

 「兵器が無い、食うものが無いなどは、戦いを放棄する理由にはならぬ。弾丸が無かったら、銃剣でやれ、銃剣がなくなれば腕でいくんじゃ、腕がなくなったら足で蹴れ、足もやられたら口でかみつけ。大和魂を忘れるな。日本は神州である。」

 1945年7月8日、全軍総退却の命令が出た。この退却を悲劇が待ち受けていた。雨期のために河川が氾濫、泥濘のなか、マラリアチフスアメーバ赤痢が兵士を襲う。さらに飢えが襲い、兵士は次々と倒れていった。退却路には日本兵の白骨化した死体が連なり、白骨街道と呼ばれた。9万人の兵士のうち5万人以上の兵士が死んだ。

 そして敗戦。10年後、火野は中国を訪れる。

 「惨禍と人間破壊には、いかなる理由も弁解もはねのける恐ろしい罪がある。どんな戦争でも、人間はしてはならないのだ。勝利や敗北にかかわりなく、それは人間の祈りなのだ。」

 この火野葦平の甥が誰あろう、あの「アフガンに水路を引き、緑を取り戻し、農業を再興しよう」と、ペシャワール会を立ち上げて自己の人生をかけた中村哲医師だった。中村哲は2019年、タリバンの銃弾に倒れた。