「戦火のマエストロ 近衛秀麿」

 

 

 「戦火のマエストロ 近衛秀麿」(NHK出版)、筆者は菅野冬樹、知らなかった歴史に胸を打たれる。こんな記事がある。

 

    「私は世界のオーケストラを指揮しているが、あなたが二人目の日本人だ、と言われる。」

    小澤征爾がこう言った。では一人目は誰か。

    世界を股にかけて活躍した指揮者、一人目の日本人、その人は近衛秀麿

    近衛秀麿は1923年(大正12)、24歳でヨーロッパに渡った。まずパリへ行き、フランス語を学びながら、演奏会で生の演奏を聴き、音楽学校に通った。次に、パリからドイツに入り、音楽学院で学んだ。

    その頃のエピソード。

    近衛秀麿ノルウェーに旅した。その時に、日本で関東大震災が起きたのだ。1923年9月1日、日本時間で午前11時58分、大地震と大津波が関東地方を襲った。近衛の家は鎌倉にあったが、たちまち家は津波にのまれてしまった。秀麿はそれを全く知らない。彼はノルウェー山中の地方都市に来ていた。

    9月10日、秀麿は、オスロの銀行に行って、両替をしようとした。秀麿が日本人であることを知った銀行員は叫んだ。

    「君は知らないのか。横浜なんて町は、海の底に沈んでしまったんだぞ。」

彼は叫びながら、震災を報じた新聞を差し出した。叫び声を聴いた銀行支店長が跳んできて、ロビーにいた客たちに叫んだ。

    「この日本人に見舞金を!」

    彼はそう叫びながら、自分の財布から現金を取り出して秀麿に渡した。その場にいた客たちはそれに続いた。

    秀麿はいただいた金を元手に、オスロの漁港からニシン漁船に乗ってデンマークに渡り、客席のない四等車でベルリンに戻った。

    秀麿は日本に連絡を取ると、みんなは無事という報せを受けるが、後にそれは誤報で、三人の子どものうち三歳の秀俊が津波にのまれて命を失っていた。

    秀麿は日本に帰らず、音楽の研鑽を積んだ。ドイツはナチス支配下になり、ユダヤ人への迫害が陰惨を極めるようになった。フランスはナチスに支配されたビシー政府になった。そのような時局に、近衛秀麿の名を冠したオーケストラが誕生し、演奏会が開かれたのだ。1944年4月、連合軍がノルマンディに上陸する二カ月前。

    筆者菅野は、このオーケストラの謎を考える。

    第二次世界大戦末期、このオーケストラの存在こそが、秀麿の音楽活動と人道活動における最大の謎なのだ。秀麿がヨーロッパで指揮をしたのは、1924年から1944年、秀麿は、オーケストラの全メンバーに、自分のサイン帳に署名してもらうことを慣例にしていた。サイン帳には90以上のオーケストラの、団員の署名が記されている。

    そのサイン帳の最終ページの31名の署名は、早く署名を済ませようとする緊張感のようなものが感じられた。このオーケストラでの指揮を最後に、第二次世界大戦ナチスドイツの敗北で終わったのだ。

    戦後、このサイン帳について、秀麿の息子、秀健が述べている。

    「このオーケストラには、フランスやベルギーの兵役逃れの音大生や、若いユダヤ人がいたそうだよ。」

    オーケストラを隠れ蓑にして、そこにユダヤ人の演奏家が入っていた。フランスのビシー政権はナチスに従い、ユダヤ人迫害を行っていたはずだ。秀麿がユダヤ人を団員に入れていたということ、これはきわめて危険な行為だ。筆者は推理する。

    秀麿は、『親ドイツ』を装ったオーケストラを結成し、そうしてユダヤ人を団員に入れて救済していたのではないか。サイン帳の最終ページには、他のページとでは全く違うリアリティが感じられた。早く署名を済ませ、サイン帳をしまわなければならない、というような緊張感。これは何を意味しているのか。

    この演奏会を最後に秀麿は終戦を迎える。

    戦後、秀麿は「風雪夜話」に次のようなことを書いている。

    「僕は、ことユダヤ人に関する限り、ナチス・ドイツのなすことは、絶対協調できない。純然たる人道上の問題として、力の及ぶかぎり、ユダヤ人の国外脱出を援助すべきだと決意した。」

    1944年4月、連合国軍がノルマンデイーに上陸する二カ月前、ナチス・ドイツの占領するフランスのヴィシー政権下で、近衛秀麿の名を冠したオーケストラの演奏会が開かれた。このオーケストラの存在こそが秀麿の音楽活動と人道活動における最大のなぞである。戦後、1948年(昭和23)、ユダヤ系ドイツ人のバイオリニストの、秀麿へのメッセージを、筆者菅野が発見する。

    「私たちは、あなたの行いを決して忘れないでしょう。」

 ハンブルグ大学の図書館で、ナチに追われた指揮者が1939年(昭和14)、秀麿に送った書簡を見つけた。

   「一刻も早く、日本に入れるようにしてほしい」

    日本にオペラをもたらした人物だった。

    しかし、秀麿の資料には、どれにもユダヤ人を救済したことを書いていない。

    ユダヤ人を救済した日本人といえば、リトアニア領事官の杉原千畝で、彼は『命のビザ』の発行で知られている。それは1940年7月から8月の間と言われている。

    秀麿はドイツで指揮棒を振り続け、そのかたわらユダヤ人救済を行っていた。秀麿はナチによるユダヤ人迫害に強い嫌悪感を抱いていた。才能あるユダヤ人音楽家が次々と捕らえられていく様を目の当たりにして、彼らの救済を決めていた。その活動には協力者がいる。その一人が、日本大使館員の二等書記官Y君だった。

    筆者菅野は、ヒトラー政権下で行われた「人道活動」の事実を探っている。