こんな卒業式があった 真佐子さんの回想

 

 

 

 「夕映えのなかに」を読んでくれた真佐子さんが、長い感想文を送ってきてくれた。これほど長い感想文を書いてくれたということは、それだけあの頃の体験が強烈だったからだろうと思う。彼女は、矢田南中学の一期生だった。

 感想文の一部分をここに載せておきたい。ここに出てくる斎藤先生は、今はもう他界されている。真佐子さんの担任が斎藤先生だった。50数年前の、記憶の中に残る世界。

 

 

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 私が矢田中学校一年生の時、クラス担任は斎藤弥彦先生でした。斎藤先生は私に大きな影響を与えました。社会を認識する力や、人間として大切なことは何かを考えることを学んだように思います。クラスで問題が起きると、遅くまでクラスで話し合いました。初め発言する人は少数でしたが、次第に数を増していき、私はそのクラスで鍛えられて、発言するようになっていきました。上級生からクラスの子が暴力を受けたことがあった時は、クラスで、その上級生に話し合いを申し込み、教室に来てもらって話し合ったこともあります。

 斎藤先生の授業には気迫がこもっていました。先生は、「自分は軍国少年で、満州の建国大学で学んだ」とおっしゃっていました。シベリアに四年間抑留されていたこと、敗戦を機にこれまで自分が正しいと信じていたことが間違っていたと気づいたこと、などを話してくださいました。先生は、「弱い者の立場に立つ」、それを信念にされていました。

 部落解放運動の結果、矢田南中学が生まれ、私は矢田南中学の一期生となり、生徒会役員に立候補して副会長になりました。生徒会の顧問は吉田先生でした。私たちは、生徒自らが運営していく、生徒自治をめざしました。最初取り組んだのは、男子生徒の頭髪の問題でした。当時男子生徒の頭は丸刈りというのがきまりになっていたのです。矢田南中の先生たちは、「校則は、白紙から出発する」という方針を掲げていました。動き出した生徒は、「なぜ丸刈りにしないといけないのか」という声を上げました。生徒会で討議を始め、「そもそも頭髪は自由なのではないか」という結論になって、生徒全員の投票の結果、「頭髪自由化」の結果を出しました。

 続いて制服・制帽、校歌、卒業式などをテーマに生徒会と教員はそれぞれで討議を始めました。そういう取り組みが自由にできたのは、生徒の自主性を重んじ、生徒自らが創造的に生きることができるように支えてくれる教師集団があったからでした。

 三年生の三学期、斎藤先生は大きなテーマを生徒に投げかけました。将来、ムラの子は部落差別を背負って生きることになるだろう。在日コリアンの子は、民族差別を背負って、生きていくことになるだろう。では今、何をなすべきか。教室の窓から、暗い冬空が見えました。アイデンティティにかかわる話は重い。教室に重圧感がただよいました。そうして始まったのが、ムラの子は、受けてきた差別の生い立ちをクラスの中で語り、在日コリアンの生徒は、自らの本名をクラスの中で宣言するという、「部落民宣言」と「本名宣言」という取り組みでした。重い口を開き、未来に向けて生きていく自らの原点を明らかにする。それは、差別に負けない自己を確立していこう、それをみんなで支え合っていこう、とする取り組みでした。

 各クラスは長い時間をかけて話し合い、積み上げてきた想いを発表しました。それが第一回卒業式の柱となったのです。三年生徒はクラスごとに卒業式の演壇に並び、自らの力で、一人一人、自分の宣言をして巣立っていく卒業式を実現したのでした。長い時間をかけて話し合い、積み上げてきた私たちの道程、それが矢田南中学一期生の出発でした。

 

 私は卒業して、教員になりました。あの時を振り返ってみると、親と教師と生徒が一緒になって,新しい学校を創ろうとした試みは素晴らしかったと思います。そこで思うのは、「生きる力」としての「学力」です。子どもたちは、もっともっと分かりたい、できるようになりたいと思っています。「できない」と言われている子に学力をつけていく、可能性を引き出し、力を引き出していく、それは教師の使命だと思います。使命感と、自分や家族の生活とのせめぎあい、本当に重い仕事なのだと、体験から思いました。