犬の心、犬の育ち

 動物行動学のマイケル・フォックス博士(イギリス)は、「イヌのこころのわかる本」(日本語版は朝日文庫)を著わしている。その中の一文を紹介しよう。

 フォックスが学生だった時、ノーマン・プライシャーという友人がいた。その友人は研究所で、イヌたちを早い時期に離乳させるために、一頭ずつ、別々のケージで飼うことにした。すると、子犬たちは遊ぶことができず、飼育係から餌をもらうだけになった。そしてどうなったか、子犬たちの発育状況はきわめて悪くなり、ほとんどが死んでしまったのだ。死因は細菌感染による肺炎や腸炎だった。プライシャーは、その状況を見て、ルネ・スピッツ博士の研究を思い出した。

 ルネ・スピッツ博士は、1940年代に次のような研究を発表していた。

 孤児院の幼児たちの間に、体力が衰えていく、消耗性の病気が多く見られた。そこでスピッツ博士は、孤児院の職員に、子どもたちともっと親密な接触を行うように、と指導した。そうすると病気の発生率はぐんと低下し、子どもの発育がひじょうに良くなった。その子たちは成長すると、社会的にも情緒的にも、すばらしい発達ぶりを示し、奇跡的とも思えるほどだった。

 このことを思い出したプライシャーは、子犬に同じやり方を応用し、ヒトとイヌが充分に接するようにした。遊ぶ機会をたくさんつくり、ケージのなかに遊び道具を入れたり、子犬たちで十分に遊べるようにしたりした。その結果は劇的なものだった。子犬たちは元気に育ち、仲間と仲良く暮らせる、社会性が育まれていった。イヌも人間同様、愛情、思いやりのなかで遊び、相互接触をすることが必要で、それが欠けると死んだり、社会に適応できないイヌになったりしてしまう。このことは、今の日本社会の人間の状況への警告でもあるように思う。

 日本の犬の飼育、販売の業者はどんな環境か。我が家の近くにも、子犬を育てている飼育業者がいたが、ゲージに入れられた子犬の叫び声は悲鳴に似ていた。

 2014年の夏、私はオーストリアチロル地方で山をトレッキングした。その時、大型犬を連れたハイカーたちとケーブルカーに乗り合わせた。彼らは初対面の関係だが、犬たちは、吠えることも騒ぐこともなく、静かに飼い主の横に寝そべっていた。

 鉄道の列車には犬を連れたり、サイクリング車を持って乗り込んできたりする人のための空間が車内につくられていた。

 人も犬も社会性をもって、生きている。その社会の文明というのはこういうところに現れてくるのだなとつくづく思う。