ジグーリ

 大学山岳部に所属して山に登っていた学生時代、幕営の夜はよくみんなで歌った。テントを揺らして吹雪く冬も、満天の星を仰ぐ夏も、みんなで輪になって二部や三部の合唱をした。部員のなかに音楽サークルをやっていた武田君がいて、彼が合唱指導をしてくれた。ハーモニーの質は上がり、歌集も作って山へ持っていった。歌集を見ながらみんなは何曲も歌いつづけ、歌に酔った。山の歌を中心に、各国の民謡に日本の歌、そのなかに「ジグーリ」というロシア民謡があった。ぼくはその歌が好きだった。

   1、川面きり立ち 野辺に流れて
     連なる山は おおジグーリの峰よ
   2、小舟しずかに 水面をゆれて
     美わし山は おおジグーリの峰よ
   3、母なるヴォルガに 春を迎える
     栄えあるつとめ おおジグーリの峰よ
   4、あふるる水は もすそを洗い
     海は近づく おおジグーリの峰よ
   5、舟は波間を 海に向かう
     霧に連なる おおジグーリの峰よ

 1950年後半は、歌声運動が盛んであった。「ジグーリ」はそこから仕入れてきた。よく歌ったが、このジグーリという山がどういう山なのか分からない。分からなかったけれども、「おおジグーリの峰よ」と繰り返して高らかに歌い上げるときの気分が、自分たちの山へのあこがれにぴったしだったから、みんなは朗々と好んで声を響かせた。
 大学を卒業して教職についた。1965年、山岳部のOB仲間でシルクロードの旅計画が浮上し、ぼくも参加した。約2ヶ月間の旅だった。ソビエト経由で出発点のイタリアに向かう。ハバロフスクからモスクワまでは空路を飛んだ。飛行機はジャンボで、座席は向かい合わせになっていた。前の席にロシア人のおじさんが二人座った。人のよさそうな、庶民風の人たちだった。ぼくらはロシア語が分からないから、身振り手振り、英語の片言で会話を始めた。おじさんたちはニコニコ笑いながら話を聞いている。ぼくは「ジグーリ」を知っているかと、その歌を歌った。それを聞いた二人は顔を見合わせて、何か話していたが、ぼくに向かって、ヴォルガがどうとかこうとかとロシア語で言う。何を言っているのか分からない。すると紙を出してきて、地図らしきものを書いてくれた。あれこれやっているうちに、なんとなく分かってきたのは、世界最大の水力発電所がヴォルガ川に建設され、ジグーリという山は、その近くにあるということだった。おじさんたちは農業をしているらしく、草を刈る大鎌の絵を描き、「これはコーサというんだ」と、柄をにぎって横に払うまねをした。若いぼくらは、素朴な彼らがすっかり気に入った。スターリンの独裁体制の弾圧も知っていたぼくは、ソビエト国家権力への批判と警戒感をもっていたけれども、ロシアの庶民は親しみやすい、いい人たちだと思った。
 それから13年たった1979年、ソ連アフガニスタンに侵攻してアフガニスタン紛争が起こる。教職員組合は、ソ連の軍事行動を批判し、デモを組織した。教職員組合平和運動に積極的に参加していたぼくはデモに参加して、「ソ連はアフガンから出て行け」と叫んでいた。この戦争は1989年まで10年間続き、ソ連側は1万4000人を超える兵士が戦死し、アフガン側はその数倍の戦死者を出す結果となった。アフガンから撤退したソ連は、そこから急速に衰え、1991年体制は崩壊、ロシアとなった。その後アメリカがアフガン戦争を引きおこし、今なおアフガンに平和と安寧は来ない。
 シルクロードの出発点に向かう旅は、ソ連からポーランドチェコスロバキアオーストリア、と列車の旅をしてイタリアに入った。その国際列車の車中で、今度はイタリアの若い空軍兵士と一緒になった。コンパートメントの部屋の、前座席に座った兵士は帽子に鳥の羽を付けていて、かっこよかった。イタリア語もまた分からないぼくらは、それでも会話をする。若い兵士は、ポケットから手のひらに入るほどの小さなハーモニカを取り出し、イタリア民謡を吹いてくれた。サンタルチアだった。

 今日は合唱練習の日だった。多くの高齢者を含む「早春賦100周年記念合唱団」、5月の早春賦音楽祭に向けて、10曲近い日本の歌を歌っている。