涸沢・穂高 (2)



     再会、雪の穂高


午前5時半起床、期待に胸をわくわくさせてテラスに出てみた。
快晴も快晴。どんがらどんがら、こりゃすごい天気だ。


まだ明けやらぬ空に、夜がなごりをとどめていたが、雪をいただく岩峰はすでに目覚めて、
やがてわが身を染める日の光を待ち受けて、屹立する。
穂高よ、穂高
長い年月の空白を経て、やってきたよ、穂高
穂高1峰から6峰まで、涸沢の大雪渓をはさんで眼前にある。
吊り尾根の長い鞍部の右に豪快な奥穂高
なぜこんなにも、おれはご無沙汰してしまったのだろう。
50年前、高校の同級生・南口繁明と、初めて槍ヶ岳から大キレットを通過してここに来た。
それから2年後、大学山岳部の夏の合宿はここにテントを5張り設営して、毎日ザイルを担いで周りの岩場をめぐった。
30代、40代、学校の同僚や教え子を連れてテントを張った。
それから後、自分の生き方は、心で望んでいたにもかかわらず、山から遠くなった。
今この年になって、ここに来ている。
実際それは遠い存在ではなかったのに。
歩けば確実にここにいつでも来れたのに。


食事をあわただしく済ませ、モルゲンロートを見るために涸沢の雪渓下のテント地まで新雪を踏んで行った。
常念山脈から日が頭を出すと、奥穂高涸沢岳、涸沢槍のピークの先端が紅く染まり、
屏風の頭と前穂高6峰の影を映しながら、
モルゲンロートは次第に広がり、山肌を下りてくる。
涸沢の紅葉は、終わった。
残っているナナカマドの赤い実をついばみに、お腹が緑色の小鳥が群れを成して飛んでいる。
何という名前の小鳥だろうか。
早発ちの登山者は、新雪を踏んで、奥穂高をめざして登っていった。
昔、どれだけ速く走って下れるか仲間と競った、奥穂高へのルート、ザイテングラードの細い岩尾根、
その左の沢の雪の中に、直登のトレースが見える。
穂高山荘の一部がコルに見え、飛騨側から吹き上げてくる風で雪煙が上がる。


ここまでやってきて、再び山への自信めいたものがよみがえってきた。
穂高まで、時間に余裕があれば行けるだろう。
だが、今日はここまで、せめて少しでも高くへ行こう。
ザイテングラードの尾根の取っ付きまで登ると、頂上・稜線はいちだんと近くなった。


山小屋のトイレは、環境問題への取り組みによって、それぞれ工夫をしている。
昔のような垂れ流しは許されない。
バクテリアを利用して分解するなど、方法はいろいろ考えられているが、
ここでは便槽をカートリッジ式にして、満杯になった便槽はヘリコプターで吊るし、都市の処理場まで下ろしている。
だから費用がかかる。
山小屋の外のトイレは、チップを100円程度、箱の中に入れることになっている。


昨夜からひとつの実験を、山小屋の中のトイレでやってみた。
かつて、かの村の、かの合宿でスタッフをした時、子どもたちとやった実践。
山小屋のトイレに6足のスリッパがあった。
入ったとき、それらは散乱していた。
山小屋の住人も宿泊客も、トイレから出るとき、スリッパを適当に空いた所に脱いでドアを開けて出てくるものだから、スリッパは散乱し、
トイレに入る人は、こちらに向いて勝手気ままに脱がれたスリッパに足を入れるために、体の向きを変え、足を伸ばし、ということになる。
そこで実験。ぼくは、スリッパを全部、入る人がすぐにはけるようにトイレ内部の方へ向けてきちんとそろえて並べた。
さて、ここではどうなるだろう。
次にトイレに行ったとき、スリッパは5割がはきやすいように、内に向けてそろえられていた。
そこでまた、全部をそろえて置いておく。
3回目、7割がそろっている。
4回目、8割。
今日、山小屋を出るとき、ほぼ全部が、入る人がはきやすいように、そろえられていた。
実験成功。
こうしてささやかな一つの事象も、考える人を生み出し、マナーが生まれていくのだが‥‥。


稜線の積雪は40センチだという。
太陽は山小屋を照らし出し、小屋の軒から垂れ下がった40センチほどのつららを融かしはじめた。
標高2400メートルのところまで登ると、雪の峰の背後の空は深い紺碧になった。
9時過ぎに下山開始。
岩の上に積もった雪や氷が、スリップを誘発するから速度を速められない。
本谷橋の上あたりで雪はなくなった。
横尾小屋のまえの桂の木が、すっかり葉を落としている。
徳沢園の桂は、まだ葉を残していた。
上高地は、昨夜風雨が激しかったようで、緑の葉まで吹きちぎられて、道を落ち葉で埋めている。
明神岳の雪の岩峰、河童橋からの穂高の雪の峰が、午後の晩い光に輝く。
午後4時過ぎ、行程は終わった。


息子が呼び起こしてくれた動機。
息子たちによって、再会できた穂高
また行こう。