大江さん、知遇の恩義に報いたい

 

 4月10日の朝日新聞で、感動的な記事に出会い、胸が詰まった。

 中国人作家の鄭義(チョン イー)さんの寄稿文で、先日亡くなられた大江健三郎を追悼する文章だった。

 

    鄭義さんの文章は中国語で書かれた原文を日本語に翻訳されたものだろう。タイトルは「大江さんの知遇の恩義に報いたい」。

    鄭義さんの小説「古井戸」は、水不足で苦しむ山村を描く。1987年、「古井戸」は映画化されて、東京国際映画祭でグランプリを受けた。その2年後に天安門事件が起きた。事件にかかわったとして鄭義は当局から指名手配を受け、彼は妻とともにアメリカに亡命した。大江健三郎との出会いは、大江がノーベル文学賞を受賞した時の講演で、鄭義について話したことから始まったのだった。

    鄭義の大江追悼文は、次のように語られていく。

    「34年前、天安門民主化運動への流血の弾圧によって私は指名手配され、3年間、流しの大工などになって中国の地の底を転々と逃亡しました。1992年3月、釈放された妻と木製のボートで香港に越境し、1993年1月、アメリカに亡命しました。その間に、ふと、大江さんが台湾の『聯合報』のインタビューで私の消息を尋ねたという記事を目にしました。大江さんは私が長く『失踪』していると聞くと、たちまち表情を曇らせ、しばらく沈黙されたと書かれており、私は心から感動し、その名前を銘記しました。大江さんは、ノーベル文学賞の受賞講演でも、私の名前をあげました。これらを中国では『知遇の恩義』と言います。初めてお会いしたのは大江さんが、1997年、プリンストン大学で講義していた時でした。それから二人の交流が始まり、日本ペンクラブの招聘で訪日し、東京で公開対談したときは、まさに『君子の交わりは淡きこと水のごとし』でした。」

    鄭義は十数年来、日中戦争をテーマにした史詩的な長編小説に取り組んでいた。小説の中に、中国を侵略した日本軍の司令官、松井石根が登場する。松井は1937年の南京攻略戦で大虐殺を行い、日本の敗戦後A級戦犯として死刑に処せられた。中国では松井石根は、悪魔的な人物とされている。南京大虐殺は、配下の師団長らが引き起こしたものとされているが、司令官としての罪は逃れられない。

    鄭義の記事。

    「松井石根は(1938年)帰国して退役し、『彼我の戦血に染みたる江南地方各戦場の土』を使って、自分の住む伊豆山に、南京に向けて合掌する観音像を建立し、日中双方の戦死者を供養しました。私はこれを真心からの懺悔だと思い、大江健三郎さんに、このような懺悔は価値があるのかと伺いたかったのです。かつて私は、大江さんと往復書簡を交わしていましたが、大江さんは『悔恨などというものが生産的かと問い返されるなら、確かに悔恨それ自体は受け身の感情です。しかし意識してとらえなおし、記憶し続ける時、それは積極的な人間の態度となります。』と述べました。大江さんは『悔恨』に関連付けましたが、私は『懺悔』を考えます。戦犯としての松井石根の『懺悔』は、渡辺一夫丸山真男、大江さんたち日本を代表する知識人たちの『懺悔』と等価でしょうか。

 私はずっと躊躇してきました。大江さんを煩わしてはいけない。本を脱稿してからご意見をうかがおうと思いながら、十数年以上も書き続けてきました。ところが、誰からも歓迎されない本になってしまったのです。侵略戦争にはっきりと反対する基本的立場に合致しなくては受け入れられないというものもいれば、侵略者に同調していると非難するものもいます。

    史詩的な長編小説が完成する前に、大江さんは永眠されました。もはや温和で叡智に満ちた声を聴くことができなくなりました。今はただ願うだけです。いつかお墓参りし、鎮魂として完成原稿を焚きあげて、知遇の恩義に報いたいと。」

    鄭義の、この深い悩み、ひたむきな慈愛、悔恨の情。

 

    ぼくが8年をかけて「夕映えのなかに」を書いたのは、功と罪、歓喜と懺悔、希望と悔恨の想いからだった。