追憶の山

 

                   以前、アキオ君のリンゴ園で


 

    夕暮れが速い。ストックをついて、常念岳を見ながら野を歩く。諏訪神社に向かう上り坂。冬枯れの田んぼに麦が芽を出している。意識して大股で、足を伸ばし上げるように歩く。ストックを突く両腕に力が入る。この歩き方をすると、膝の痛みが軽減する。

    神社の手前に小さな分譲地があり、二十軒ほど、思い思いの住宅が建っている。その中の瀟洒な洋館がここ数年庭が草ぼうぼうになっているから、住む人がいなくなったのかなあ、けれども空き家ではないようだなあとも思っていた。そこから、一人の小柄なおばあさんが出てこられた。おばあさんも膝をひきづるような歩き方をしておられる。おばあさんは、ぼくが二本ストックを突いて歩いているのを見て、声を掛けたくなったのだろう。

「私もね、足が弱っちゃってね」

    おばあさんは、手に「ネズミ大根」を一本持っておられる。「辛味大根」とも呼ばれ、穂高町の上の牧地区の特産だ。大根を家の前の水路で洗おうとして、家から出てこられたのだ。水路はいつも山からの清流が流れている。

 「この二本ストックを突くと歩けるのですよ。ストックが無かったら痛くてね。」

 ぼくがそう言うと、立ち話が始まった。おばあさんは思いがけないことを言った。

 「私は、若いころから山岳会に入って、登山をしていましてね。でももう常念には登れません。」

 「やあ、私もですよ。数年前、蝶が岳から下りてくるとき、えらいスピードで下りたもんだから、膝がやられましてね。」

 「私はね、スイスの山へも行ったんですよ。ツェルマットも行きましたよ。マッターホルンも見ました。」

 「へえ、それはすごい。」

 「でも、もうダメです。」

 おばあさんは、若いころの山の追憶で生きておられるのかなと、聴いていて思う。

 おばあさんと別れると、諏訪神社から正さんの田んぼの方へ回って、正さんの田んぼの縁に設置させてもらったぼくの手作りベンチに座った。四番目のベンチだ。常念岳の方に向かって座る。人の姿はない。気温が下がってきていたが、数曲、声を響かせて歌った。大学山岳部で登攀した後の夕べ、よく歌った曲。生徒たちを連れてキャンプしたとき、火を焚きながら歌った曲。いずれも歌詞が単純で短いけれど、しみじみと心に迫る歌ばかり。

 

   夕べ 峰に 訪れて

   あかね空に 陽は入りぬ

   流れる雲は 紫に

   あしたを語る 星月夜