老いたランはトイレが近くなった。トイレに行きたくなると、「ワン」と太い声で吠えて人を呼ぶ。その回数が増えた。
午後八時ごろ、ランが呼んだ。
ランを連れて外に出た。冬耕(とうこう)された田んぼと、まだ三寸ぐらいにしか伸びていない麦畑の中の道を行く。
星明りに道が見える。
人家の灯のないところへ行く。
西の空に金星が輝いている。
宵の明星は、他の星よりもいちだんと光を放つ。頭上にオリオン、西にかすかにスバル。北に北斗七星。老いたわが目にはもうよく見えないが、無数の星星が見える。
金星の位置が常念岳の頂上に近づいている。夜の闇では常念岳の頂上は見えないが、その位置は見えなくてもあのあたりだと分かる。金星は常念岳の向こうに沈むだろう。
もうすぐ沈むぞ、沈むぞ、山に隠れるぞ。
金星の輝きが消えたら、そこが常念の頂上だ。
ランのリードを手にして、ぼくはじっと暗闇に立って金星を見つめていた。ランも闇を見つめていた。
すっと、
金星の光は消えた。
すっと、何の前触れもなく、消えた。
今までそこに輝いていた光が、静寂のかなたに、すっと消えた。
繰り返されてきた宇宙自然界の営み。
人間の生もランの生も同じ、
いつか、すっと消えていく。