車座社会は生きているか


 

  ワールドカップ、ドイツチームとの試合中、日本の応援団の歌声が響き渡っていた。

同じユニフォームを着、同じところに陣取り、同じ歌を身振りそろえて歌い、心を通い合わせ、一体感に酔う。入魂のボールがゴールに入った途端、連帯の感情が爆発した。

 このような連帯、感情を共有する機会は、日本の日ごろの生活ではあまり無い。

 

 大岡信は、「『車座』社会日本」という表現をしていた。古代から日本に、『車座』があった。車座(くるまざ)になって、歌を詠み、俳句をつくる。万葉集にも出てくる。みんなで集まって、梅の歌を詠んだり、鳥の歌を詠んだり、酒を酌み交わしたりした。俳諧が誕生すると、これまたみんなで集まって会を開く。しかし宴(うたげ)の隆盛は「上流」社会のもの、庶民は生きること、食べることに必死だった。

 しかし宴は時代と共に次第に庶民に広がり、和歌、俳句は階級を超えていった。「車座」になって和気あいあいと団欒する。飲む、歌う、語り合う、解放感が充ち溢れる。

しかし、今の日本社会では、どんな状況だろう。「車座社会」と言えるだろうか。一般庶民に「車座」の団欒、感情の共有は存在するだろうか。

 ワールドカップ、ドイツチームとの試合、日本の応援団は一体感に酔っていた。応援歌がみんなをつないでいた。今はスポーツを応援する場に、「車座」が生きている。

 日本の応援団は、会場を去る時、ゴミをきれいにかたづけていったそうだ。無礼講ではなかった。