東の空は茜に染まり日が昇るまでまだ一時間ほどはある。人影なき朝の野道を行く。雪の常念山脈が少しずつ赤味を帯びてくる。透明な冷気がここちよい。不思議な感覚がある。今日の研ぎ澄まされた感覚は今までにないものだった。
なぜこんな特別な感覚が生じてきたのだろう。今日は我がバースデイ。我が生まれし年ははるけし。その感慨がこの朝の大気によって呼び起された。
生まれたその年、日本の中国への侵略による全面戦争が始まった。その年に作られた短歌を昭和万葉集から拾い出す。
白馬岳を下りくる道の駅あてに君が召集の電報をうつ
横路百々作
作者は中学校の教員だった。「君」に召集令状が来た。「君」は今白馬岳に登っている。山から下りて駅に来た時に、「君」に届くように駅あてに電報を打った。「君に召集令状が来た」と。「君」は誰だろう。友人だろうか。子息だろうか。同じ作者の歌二首。
覚悟きめるまで二日間はかかりしと戦に征く君はあからさまにいふ
軍隊に入ることを、死を賭して出征することを、「君」は覚悟するのに二日かかった。その苦悩を思いやる。
いのち生きて帰らば島に蜜柑植ゑて一世過ぎたしと君言ひにけり
生きて帰ることがもしできたら、島にミカンを植えて人生を送りたいと、「君」は言った。その「君」は生還できただろうか。
その年、政治学者の南原繁は次の歌を詠んだ。
目をつぶりてしばしばも思ふこの日はや第二次世界大戦はとどろき起こりぬ
ヨーロッパでは世界大戦になり、やがて日本もアメリカとの戦争に落ち込んでいく、日中戦争の本格化が始まっていた。南原繁は、軍部に迎合することがなかった自由主義者だった。
吉野秀雄は危機感や不安感を抱きつつ、人間の生き方を考えていた。
夜をこめてトルストイ伝読みつぐやこの湧きたるものを信ぜむ
トルストイの伝記を読んでいると、胸に湧いてくるものがある。それを信じようと思う。
前川佐美雄の歌は象徴的だ。
あかつきのまだ暗きなかを目覚めゐぬこの世の鳥は地の底に啼く
歌を詠む人も、地底で詠むしかない時代になってきた。戦争は社会全体を暗黒の中に突き落としていく。
我が生まれし時代は戦の時代だった。