子どもが学び始めるとき

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 「自閉症だったわたしへ」という、ひじょうにすぐれた自伝がある。著者はドナ・ウイリアムズ、1963年生まれのオーストラリア人である。訳者は河野万里子。この著は、欧米でベストセラーになった。新潮社から出されたこの本は日本でも多くの人に読まれた。

 著者の彼女は「自分の世界」と「世の中」との深い断絶と激しい葛藤の中を生きて、生長した。

 幼児期から異常者扱いされ、虐待された。

 少女時代、一人の教師に出会う。

 その時を記した次の一片の文章を紹介する。

 

 「女子校でのわたしは相変わらず落ちこぼれだった。なかなか授業に出ることができなかった。出たとしても授業態度がめちゃくちゃだった。教室からすぐに出ていく。物は投げる。暴力は振るう。宿題など一度も出したことがない。ところが例外が起きたのである。

 普通なら、先生など嫌いか無関心のどちらかだったのに、わたしは一人の女の先生をとても好きになってしまった。だが、だれかに好意をもつと、やっかいな問題が立ち現れる。わたしは好きな人の前で緊張し、どぎまぎし、どうしてよいかわからなくなってしまう。なぜその先生を好きになったのかよくわからないが、おそらく『自己』を主張することがほとんどない女性だったからではないかと思う。

 先生は歴史の授業で、恵まれない立場に追い込まれたさまざまな人々や集団に何が起こったのかという話をいつもしてくれた。その話には個人的な感情も意見もこめられてはおらず、偏向も頑固さも感じられなかった。先生は淡々と事実を述べるだけだった。

 わたしは先生のところに話に行きたかったが、とても普通には話せないと思った。そこでわたしは、かなり強いアメリカンイングリッシュの発音で話すことにし、身の上話もつくっていった。わたしはこのキャラクターになりきり、それを半年間貫き通した。

 おかげで、他の先生からは手に負えない問題児だと思われていたわたしも、この先生には、聡明でおもしろく、教え甲斐のある生徒だと思ってもらえたのだった。そうして学期末。わたしはどんな先生にも出さなかった力作のレポートを彼女に渡したのである。私は以前から、アメリカで、黒人たちがどのような処遇を受けていたかに興味があった。そこでわたしは、先生に、わたしのテーマは内緒にしておきたいと話した。

 やればやるほどテーマがふくらんでいくので、先生に締め切りの日を延ばしてもらった。わたしはテーマに関係のあるあらゆる本に当たっていった。写真や図もレポートに書いた。

 わたしは26ページになる大作を提出した。先生は、Aをくれた。そのとたん、わたしは、アメリカン・イングリッシュの話し方をいっさいやめた。

 中学時代に私が達成したいちばんのものは、このレポートだ。わたしは純粋に自分自身の興味からというよりも、好きだった先生に認められたい一心で、がんばったのである。」

 

 著者は今は教育学研究者になっていると思っていたら、なんと彼女は亡くなっていた。天咲心良さんのブログで知った。そこにこんな文章があった。

 

 

<「自閉症だったわたしへ」で、自閉症者の心情を一つも隠すことなく吐露し、その理解の道を開いた勇気ある一人の女性、ドナ・ウィリアムズさんが亡くなりました。 54歳だったそうです。 ずっと最愛のだんなさんとともにガンと闘ってこられたけれど、治療の甲斐なく4月22日、永眠されました。

 

 彼女がいなければ、自閉症者への理解の道は開けなかっただろうと思う。

 

  ドナが生きた人生は険しかったけれど、彼女が歩いた道が私たちのための道になり、道が希望になったのは、間違いない。

  いつか会えたらと思っていた。今は、夢のまた夢。ああ、夢の中でなら叶うかもしれないけれど、それじゃあなんか意味がない。やはり生きてるうちに彼女にお会いしたかった。>