日本語教室の生徒

 昨夜、ベトナムのドゥアン君と腕相撲したせいだ。右腕が痛い。家内にそのことを言うと、年寄りが、青年と腕相撲をしたりして、プッツンきれたらどうするの。年を取って、思いきり力を出したりすると、腱が切れることもある、とあきれている。
 「互角だった。勝負がつかなかった。どちらも強かったなあ」
 「強い、弱い」という言葉と漢字を教えるために、とっさに腕相撲を申し込んだというわけだ。日本人なら、「強」という漢字を見ただけで、「つよい」というイメージを頭に浮かべる。「弱」という字を見ただけで、「よわい」というイメージが浮かぶ。「笑」という字は、それ自体が笑っている。表意文字は、文字を見るだけでイメージできる。しかし漢字圏以外の国の人はそうはいかない。そこで外国人に教えるときはイメージを伴う行為や表現を示して、言葉と漢字を教える。ドゥアン君とがっぷり組んで、両者動かず。
 「強い、強い」
と、ぼくは言いながら、負けまいとする。ドゥアン君も言う。
 「強い、強い」
 教材に「投げ飛ばす」という言葉が出てきた。そこで「投げる」の漢字をホワイトボードに書いて、言葉を声にしながら、投げる動作を繰り返す。次いで「飛ばす」を表現する。続いて、「飛ばす」と「飛ぶ」の二つをボードに書いて、紙飛行機を「飛ばす」、そして飛行機が「飛ぶ」と言って、ぼくは両手を広げて飛行機になる。それが理解できたところで、「飛ぶ」と「跳ぶ」の漢字を書いて意味の違いを、動作で表現する。そこでまた年寄りの冷や水をやってしまった。「跳ぶ」を示して、ぼくは走り幅跳び、大きくジャンプ。床にドスンと着地したとき、脚に衝撃が来た。が、特になんともなくて、よかった。
 
 29日に国際交流のイベントがある。陳さんがそこで体験発表をする。その原稿を見せてもらったら、先日彼女が書いていた手書きの、不十分な部分がいくつもある文章が見事に整えられて、パソコンで印刷されている。彼女は安曇野市内の三つの日本語教室に通っていて、その一つのところの先生がきれいに添削してパソコンで打ち出してくれたものだった。こうなると、彼女の未熟な文章は、日本人のような文章になってしまっている。
 そのなかに、こんな内容があった。

 「日本で生活する上で、困ったことがあります。それは中国と日本の文化が違うことです。たとえば、私が先生を誘うとします。中国の場合は、もし行きたくないなら、行きたくないとはっきり返事します。日本の場合は、行きたくなくても、はっきり返事しません。あいまいな態度や返事をします。
 こんなことがありました。日本語教室の休憩の時間に先生のお茶が少なくなりました。私が、「追加しますか」と聞いたら、先生は「いいです」と答えました。私は、追加してもいいですという意味だと思って、先生のお茶をつぎ足しました。でも実際は、お茶を追加しなくてもいいですという意味でした。そのとき先生は、「いいです」には、断るという意味もあると説明してくれました。」

 文章は添削されてきれいに整っているが、この体験は、彼女自身の体験であった。日本人の表現のあいまいさを鋭くとらえた体験だった。その体験から、彼女は日本の文化と中国の文化の違いに興味関心を持っていた。ぼくはその印刷された原稿を借りて、明日の月曜日の特別指導のときに返すよ、と言ってもって帰った。

 翌月曜日の午前10時半からの特別学習、教室は、社会福祉協議会の支所の部屋を借りている。生徒はノブと陳さんの二人、ぼくの教えることは、日本の社会と日本人の生活について。
 今日分かったことは、原爆が広島、長崎に投下されたこと、その被害はどんなものだったかを陳さんが知らなかったということだった。そして福島原発事故放射線の危険についても、二人はよく知らないということだった。

 陳さんの例の発表原稿を返すと、彼女はこんなことを言った。
 「わたし、自分のもとの原稿で発表したいです。わたし、こんなにじょうずではないです。わたしの言葉で発表します」
 なるほどと思いながら、その気持ちをじっくり聞いた。彼女の説明の中に出てくる、印刷してくれた先生についての話から、彼女のプライドと尊厳が関係していることをぼくは感じ取った。
 そうしたいということなら、そうしたらいい、日本語の勉強ということだけではない、それ以上のものがある。自分らしい発表をしたほうがいい。

 最後は、日本の料理の本を教材にして、おいしいご飯の炊き方、だし汁の作り方、肉じゃがのつくり方を勉強した。