「夏は来ぬ」を歌ってみると、メロディが歌詞のアクセントにぴったり合っていることが分かる。日本人の作曲した歌は、歌詞が先にあってそれに曲をつけていることが多い。作曲家は、歌詞の単語のアクセントに合うように音階を頭に浮かべ曲を作る。
この場合のアクセントというのは、単語の音の高低アクセントのことで、英語のアクセントとは異なる。英語のアクセントは音の強弱のアクセントだ。
「卯の花の 匂う垣根に ほととぎす 早も来啼きて
しのびねもらす 夏は来ぬ」
日本語の共通語は、東京弁を「標準」にしているから、そのアクセントで朗読すると、「夏は来ぬ」のメロディとぴったしである。もし大阪弁に合わせて作曲したら、まったく違う歌になるだろう。
「ホトトギス」の一音一音のアクセントは、「低・高・高・中・低」。大阪弁なら「高・高・高・中・低」。
大阪弁に合わせて歌を創ったら、どんな曲になるだろうか。
村の五月の、コーラスの例会で、モーツァルト作曲の「五月の歌」を合唱した。シンプルそのものの歌だけど、オーストリアの五月、万物輝く美しさを歓び一杯に歌う。この曲に、日本人が詞を付けた。それがぴったしなのだ。メロディと歌詞のアクセントが見事一致している。だから体が歌いだす。
母語のアクセントは、人間の体にしみこんでいて、アクセントにぴったり一致した曲は、命の躍動に合致する。この歌詞を作った人は、おみごとというしかない。
ぼくは野を歩きながら、この歌を野原に響かせる。
「あかとんぼ」の歌の謎を、青年のころ同僚の音楽の教師が言った。
「夕焼け小焼けの あかとんぼ‥‥、この『あかとんぼ』のところが、アクセントが違うんだなあ」
「標準語」なら「低・高・高・中・低」となるところを、山田耕筰は、
「高・低・低・低・低」
と、音を付けている。ひょっとしたら山田耕筰は東京以外の生まれで、そこでの方言じゃないか、と思って調べてみたら、山田耕筰は東京生まれだった。
解剖学者の養老孟司と、世界的なジャズピアニストである山下洋輔がテレビで対談していた。ひょんなことに、山下が、
「養老さんの名前を曲に入れたら‥‥」
と言って、声を区切って発音した。
「よ・お・ろ・お・た・け・し」
「低・高・高・高・最高・高・低」
一つのメロディが芽生えていた。山下は即興でピアノを弾く。
「その通り」