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室生犀星の詩に、「明日」という詩がある。
明日
明日もまた遊ぼう!
時間をまちがへずに来て遊ぼう!
子供は夕方になってさう言って別れた。
わたしは遊び場所へ行って見たが
いい草のかをりもしなければ
楽しさうには見えないところだ。
むしろ寒い風が吹いてゐるくらゐだ。
それだのにかれらは明日もまた遊ぼう!
此処へあつまるのだと誓って別れて行った。
中村信一郎は、こう評した。
「子供たちにとって『明日もまた遊ぼう』という言葉は、忘れることのない約束である。遊び場は見た目にはつまらぬところだが、子供たちにとってはそこが聖なる場所である。夕方になって、子供たちは明日を約束して帰って行った。その後には寒い風が吹いているばかりだ。だがよくよくその辺を探してみるがよい。子供たちの盛んな命の影が写っているかもしれない。呼吸を弾ませて走り回る軽い足音が、そこらの草陰から聞えてくるかもしれない。」
この時代の子供たちは、明日が楽しみだった。友達と遊ぶ世界は毎日の楽しみだった。町や村のどこからか、夕暮れまで子どもの声が聞こえてきた。「明日もまた遊ぼうね」、この約束ともいえない、柔らかくて固い約束。その明日は、必ずやってくる。それを楽しみに、子どもはそれぞれの家に帰っていく。
現代社会では、夕方暗くなるまで野外で遊び戯れている子どもの姿を見ることがない。この詩の世界は、いつのころからか、日本から姿を消した。友だちと遊ぶ明日が楽しみで、心に温かいものを抱きながら寝に就く、平和な暮らしの姿は変容してしまった。