子どもの原っぱ <2>


 「原っぱが消えた」(堀切直人)は、北杜夫の書いた長編小説「楡家の人びと」の中に出てくる少年時代の原っぱを紹介している。
 「その原は、訪れる人々の数によって、急に生気を帯び、にぎにぎしくさざめいて見せたり、突然がらんと人気もなくなって、いやにひろびろと拡がって見せたりした。春から夏にかけて、その各々はごくみすぼらしい、あまり名も知られぬ小さな植物、しかし一面に手でかき分けていくほどの群落となると、かぐわしい“しとね”ともなる雑草たちによって、芳醇に化粧された。お互いに葉を投げかけ合って甘酸っぱい水気をひそませ、泡吹虫の唾にも似た巣を点在させて、バッタやトンボをひきつけてくれる。ありふれていながら、同時にかけがえのない珍かな、子どもたちの宝庫。その草むらはやがて繁茂しつくして乾ききり、いつしか種類を変え、次第にうらぶれたものと変わっていくうちに、タデとかカヤツリグサなどのその一つひとつの形態と色彩とが不思議に鮮やかに目に映じてくる。」
 北杜夫は、熱烈な昆虫少年で、ファーブルのような昆虫学者になろうと思い、旧制松本高校に入学した。松高にはトーマス・マンの小説を日本語訳したドイツ語教授の望月市恵がいてその影響を強く受け、北杜夫は作家を志すようになる。後に「どくとるマンボウ」ものなど多くの小説、随筆を残した。また松高入学の目的の一つに日本アルプスの登山もあった。山もまた憧れだった。
 堀切直人は、北杜夫の中学時代の一年先輩である奥野健男(文芸評論家)の「文学における原風景」から、「原っぱは自分の原風景であり、故郷の断片である」という文章を紹介している。
 「子どもは、学校とは違う世界、“原っぱ”を持っていた。そこは学校の成績や家の貧富の差などにかかわりのない、子どもたちの別世界、自己形成空間であり、そこの支配者は腕力も強いベイゴマもメンコもうまいガキ大将であった。ぼくたちはおずおずその世界に入り、みそっかすとして辛うじて生存を許されていたようだった。しかしこの原っぱこそ子どもたちの故郷であり、原風景であった。」
 「原っぱは都会の隅っこに残された秘密の隠れ場であり、非公認、非合法に子どもたちが占拠した秘密の遊び場である。原っぱに入りこんだ子どもたちには、そこが、本当は踏み込んではならない場所、遊んではならない場所という潜在的な恐れの意識があり、それを犯すところに遊びのスリルと秘密をかきたてた。原っぱには、無限にぼくたちを吸引する魅力と、なぜかひとりでは入っていけないような拒絶するおそろしい力とが併存していた。」
 奥野健男は都会の中に残された原っぱのミステリー性をかつての聖域、禁忌空間の跡地であったことに由来すると推測した。
 その原っぱには昔の人の何かの痕跡があった。昔そこに屋敷があった。原っぱの片隅には石仏や祠があった。昔の人の植えたケヤキイチョウなどの由緒のありそうな大木がうっそうと茂っていた。
 そう言えば、ぼくの少年時代、心ひかれた原っぱにも昔の人の痕跡があった。大きな建物はもう存在しないが、壊れた階段の跡が残っていた。瓦のかけらが落ちていた。草の茂みに隠れた小道沿いに、リュウノヒゲが生えていた。その株を少し引っこ抜いて家に持って帰り、家の道沿いに植えた。昔の痕跡のある場所には、霊的な何かを感じる。恐れとともに一種の懐かしさも感じていた。
 子どもたちの原っぱが消えていったのは1960年ごろからだと堀切直人は書いているが、それはぼくの観てきたところと一致する。
 空き地がなぜ目の敵にされるようになったのか。著者は大岩剛一の論をもとにしてこう書いている。
 「それは都市住民がこの時期以降、大地を、土を疎ましく感じるようになったからではないか。戦後の都市住民は、まだまだ土に根差していて、混沌とした大地の象徴でもある土の猥雑さを“共有”することができた。ところが70年代以降、”猥雑で混沌とした一切のをも”を寄せ付けなくなり、本当の意味の土を失った。大地がむき出しになっているところ、何の役にも立っていない雑草の生い茂っている原っぱは、人工物で覆いつくされるようになった。
 都市の中から空き地がなくなったのは、ビルや住宅がそこを埋めたからではないだろう。私たちの中で、空き地を空き地として感受する力が失われたときに、空き地は初めて明け渡されたのだと思う。
 私たちの視線はいつの間にか、土地を塞ぎ占有するものの側に焦点を結ぶようになった。それはやっかいきわまりない大地という“隙間”を埋めようとする者の視線である。1960年代以降、住民は、“隙間”を埋めようとする者たちの集合と化した。」
 上田篤「まちの再発見」の論を引く。生活の中にある空間の視点である。
 「生活空間さえ次つぎと破壊されている。生活空間といえば、まず道路があった。道路で人びとは遊び、語らい、楽しんだ。しかし、いま道路は自動車が占領して、人びとは家の中に追いやられてしまった。」
 太古から道は、往来のためばかりではなく、生活のためのものであり、子どもの遊びの場だった。道で羽根つきをしたり、石けりをしたり、縄跳び、かくれんぼ、鬼ごっこをしていた。農家は畑の収穫物を道に干したり、脱穀をしたりしていた。
 原っぱと道が奪い取られるともに、自由が奪い取られ、冒険、探検、自然の生命の営みにふれることも奪い取られた。