北さん、逝く

 白馬村に住む徹君に電話した。
「北さん、亡くなった。14日、大往生や。」
 奥さんからの連絡は一週間ほど前にあった。
 夕食に、ホタルイカを食べ、焼酎も飲んだ。ちょうど孫娘が来ていた。爺が大好きという孫娘は、18歳。
 みんなが休んで、午前0時を回った時、北さんの状態が急変した。奥さんは寝ていた孫娘を起こし、救急に連絡をとった。孫娘は北さんの手を握っていたが、意識はなくなり、心臓が止まった。82歳。
 「顔色もよくて、ほんとうに眠っているようでした。」
 火葬のあと骨揚げすると、北さんの頑丈な骨は見事に残っていた。鍛えられた頑健な体は、骨に顕れていた。
 三十代初め、台湾の玉山登攀から帰国し、酒に酔って電車のホームから転落し車輪にはねられた。頸椎損傷、右半身にマヒが残り不自由になった。それでも高校の教壇に六十代まで立ち続け、持ち前のしぶとさとユーモアと豪快な生き方を貫いた。東海自然歩道を端から端まで歩くと目標を立て、何日もかけて大阪から三重の鈴鹿まで歩いた。内蔵の病にも見まわれたが克服、大和盆地をぐるりと一人で歩くリハビリ中に何度も転倒するが、怪我しながらも歩くことをやめなかった。命の限界の宣告を受けたのは二年前、菌が入ったということだったが、奇跡的に克服した。だが車椅子を使う暮らしになった。そこへもって癌の宣告。それでも、なんとかして歩こうと、チャレンジを続けた。歩くことへの執念はすさまじかった。その果敢な闘病が突然断絶した。
 彼と登った数々の山を思い出す。
 先輩の彼との山行は大学山岳部から始まった。最初は積雪期の富士山。それから白馬岳、穂高岳剣岳鹿島槍ヶ岳と、四季を通して北アルプスの未踏のルートにも挑んだ。白馬岳での雪崩による遭難。無雪期の登攀記録が存在しない鹿島槍ヶ岳東尾根三の沢登攀。豪雪の鹿島槍東尾根から登頂。黒部渓谷の上の廊下完全遡行をめざし繰り返しチャレンジ。ヨーロッパからインドまでの砂漠地帯を越える探検も一緒だった。

 数年前、北さんは、ぼくが「樹木葬自然公園」の計画を立案し、行政に呼びかけていることを知り、
「それ、いいなあ。おれ、死んだら一本の木を植えてくれ。どこか北アルプスの見える所。そこに散骨してくれ。」
と言っていた。
 だが、北さんの逝ったあと、奥さんは、
「息子がイギリスに行っていたので、連絡して帰ってきてもらい、肉親だけの家族葬にしました。お骨は京都のお寺に納め、そこに眠ってもらうことにしています。」
ということだった。奥さんにぼくは応えた。
家族葬、いいですね。私も家内とそうしようと言っています。私はどこでもいいから散骨してくれ、と言っています。」
 白馬村に住む徹君に以前、
「北さん死んだら、北さんの樹を植えるところないか。探しておいてくれ。」
と言ったことがあった。けれど、もうその必要はない。
「特にわれわれ、することないよ。」
と徹君に伝えた。白馬岳の見える所に木を植えようかと思っていたけど、家族が願うところに墓所を定めればいい。白馬に墓所をつくれば、遠い家族は簡単に来ることができない。
 
 シリア砂漠のど真ん中で、クウエートの札束を拾い、「アラーの恵みや」と言って。ぽっぽないないした北さん。
 黒部渓谷の中心で、岩魚を手づかみして、バター焼きにして食った北さん。
 米の飯を食わんかったら力が出ん、と言って、毎食メシを炊いて食った北さん。
 「歌う山岳部」で、いい声を響かせてロシア民謡やドイツ民謡を歌った北さん。
 歩けば猪突猛進、歩くことを命とした北さん。
 最期も、北さんらしかった。