領土というもの(3)



戦争が終わって67年がたつ。だが、隣国では日本軍国主義にもとづく侵略行為の記憶がくすぶり続けていて、領土問題になると、科学的知見をもって将来の両国と世界の平和に資する冷静な解決策が陰を潜ませ、感情的対立が暴発する。いったいいつまでこのようなことを繰り返すのだろうか。
戦後日本では、学者、民間サイドでも、平和憲法を厳守し、過去の戦争の実態、心身に刻まれた記憶を明らかにする活動も地を這うように行われてきた。しかし、そのことはどれだけ日本国民の共通認識として深化しているだろうか。教育の現場からしてもきわめて薄弱と言わざるをえない。
政治は政治家の仕事だと、すべてを丸投げしていては、やがて危機がやってくる。日本国民は、近代史のなかでそのことを痛烈に体験してきた。
今日、高橋源一郎(作家・明治学院大教授)が、朝日の「論壇時評」のなかで書いている記事にひきつけられた。高橋は『ドイツ・フランス共通歴史教科書』を読んで、鮮烈な印象を受けたという。『ドイツ・フランス共通歴史教科書』、この文字がぼくの眼に飛び込んできたとき、ついにそこまでやったかと、両国のすごさに感嘆の声が出そうになった。その部分はこう書いている。
「かつて殺し合った二つの国の、双方の高校生に向けて執筆されたこの現代史は、ドイツ語版もフランス語版も全く同じものになるよう作られた。表紙には2枚の写真が置かれている。1枚は、1989年の『ベルリンの壁崩壊』であり、もう1枚は、1984年、第1次世界大戦でもっとも多くの戦死者を出した仏ヴェルダンで、両大戦の死者に哀悼の意を表するために、固く手を握り合って立つ2国の首脳の姿だ。その、まるで幼子のように無防備な姿を見せることのできる指導者を持つ、その国の人たちをぼくは羨(うらや)ましいと思った。序文は、こういう。
『フランスの青年もドイツの青年も、いまだかつてこれほどまでに相手国の歴史に目を向けたことはないであろう。さらにそれは開かれた地平へ、つまりヨーロッパ的、世界的視野へと向かっている。1945年以降の世界において、それ以外にどのような方向性があり得るだろうか?』
ぼくは、この言葉を、この国の政治家におくりたい。『日中共通歴史教科書』や『日韓共通歴史教科書』は、まだ『遠い』未来にしかなく、ぼくたちの生き死にに関わり、『近く』にあるべき政治・経済のシステムはいま『遠く』に感じられる。だが、それを『近く』にする戦いはもう始まっているのだ。」

高橋の紹介してくれたこの独仏の共通教科書に次ぐ、日本と隣国の教科書を作ることは夢だろうか。歴史認識は違うというが、何が違い、なぜ異なるのか。戦後日本国民の意識は、非戦、反戦に立っている。侵略はしない、許さない。世界平和を目指す。日本国憲法の前文の精神が、隣国の学校の授業で紹介されたことはあるだろうか。互いに相手の国を知らねばならないし、知ってもらわねばならない。