ソロー「森の生活」 4


 
 「すべての人びとをして、自らの仕事に専心せしめよ。そして本然の自己たるべく努力せしめよ。‥‥」
 つづいて鶴見俊輔の名訳の部分に至る。
 ところで、宮西豊逸訳の上記の部分の入っている段落の最初は、1995年に出版された飯田実の新訳(岩波文庫)では、どんな訳になっているか。飯田実訳(岩波文庫)下巻「むすび」の章の「われわれアメリカ人は」で始まる段落に上記の文があり、その後に、上記を含めて次のように続く。飯田実の新訳はこんな文体である。

 「めいめいが自分の仕事に没頭し、各自の本領を発揮できるように、全力をつくすことこそ肝心なのだ。
 なぜわれわれは、こうもむきになって成功をいそぎ、事業に狂奔しなくてはならないのだろうか? ある男の歩調が仲間たちの歩調とあわないとすれば、それは彼がほかの鼓手のリズムを聞いているからであろう。めいめいが自分の耳に聞こえてくる音楽にあわせて歩を進めようではないか。それがどんな旋律であろうと、またどれほど遠くから聞こえてこようと、リンゴやオークの木のように早く成熟することなど、人間にとっては重要ではない。われらが春を夏に変えろとでもいうのだろうか? 自己本来の目標を達成できる条件もととのわないうちに、現実をとりかえてみたところでなにになろう? われわれは空虚な現実に乗り上げて難破するのはごめんである。それとも、労苦をいとわずに、頭上高くそびえる青ガラスの天井を建設すべきだろうか? たとえそれが完成したところで、われわれはそんなものを無視して、やはり、はるかかなたの霊気に満てるまことの天を仰ぎみるものときまっているのに?」

 そしてここから一本の杖をつくる男の話になる。古代インドのクールーの町に、完璧を志して精進する一人の芸術家がいた。彼は一本の杖をつくることを思いつく。
 「おれの一生でほかに何一つ達成できなくてもかまわないから、あらゆる点で非の打ちどころのない杖をつくることにしよう。」
 彼は木を探しに森へ出かけた。枝木を一本一本調べては捨てているうちに友人たちは年を取ってつぎつぎ死んでいったが、彼は老いることがなかった。目的と決意の一徹さ、信仰心の高揚が彼に永遠の青春を与えたからであった。時間と妥協しなかったので、時間が彼を避けた。やっと杖にふさわしい木が見つかったときには、クールーの町は廃墟になっていた。彼は塚に腰をおろして、木の皮をはがし杖の形を整えているうちに、カンダハル王朝は終わりを告げた。彼は杖の先でその一族の最後の者の名を砂に記し、再び仕事にとりかかった。その間にブラフマン(ヒンドゥ―の最高神)は何度も目を覚まし何度も眠りについた。杖を滑らかにし、磨きをかけ、石突きをつけ、宝石で飾った頭をつけ終わった時、杖はみるみる大きくなりブラフマンの創造物のなかにあってひときわ美しい作品となった。
 彼は杖をつくることによって、ひとつの新しい宇宙を、完全な美しい均整をもったひとつの世界を生み出したのであった。
 「ものごとの表面をいくらとりつくろってみたところで、結局、真理ほどには我々の役にはたちはしない。」

 訳者によれば、この書は、多くの批評家によって「死と再生の神話」と呼ばれてきた。生命再生の歓びが語られ、いつの日か人間精神の春と夜明けが訪れることを待望して全編が終わる。夏に始まり、春に終わる構成が、時間の永続性と「自然」の不滅性、自然的人生を生きる人間の不滅性を暗示していると。