ソロー「森の生活」 2


 ぼくの持っているソローの「森の生活」は、1950年に出版されたもので、宮西豊逸の訳である。戦後数年の物資のない時期だから、紙質は悪く、今ではボロボロに分解していて印刷の字も見えづらい。この本はどうしてぼくのところにあるのか、たぶん奈良の金剛山麓に住んだとき、壁の間から空が見えるような古い空き家をタダであげますと言ってくれた家主の木村さんが、それより25年前に橿原へ引っ越し時に残していかれたものの中にあったと思う。
 訳者・宮西豊逸はそのあとがきにこんなことを書いている。
 「この『森の生活』は不思議な書だ。『人間はいかに生くべきか』を言語文字を越えて、鋭く強く示唆ずる書だ。
 ‥‥彼は人間の無限の可能性を確信していた。その可能性を実際に実験し証明しようとしたのが、ウォールデン池畔の森へ入った根本動機であった。人間は時代から超越し、社会から遊離して、他人とも交際せず、食糧も自給自足して、自分一人で独立独歩して生きられるものか否か。世から離れて、真の孤独となり、本然の一個の人間にかえった場合、真の人間とはいかなるものか。」
 その生活記録がこの著書であるという。その文章をここにまた引く。


 「今宵は爽快だ。全身が感覚となり、すべての毛孔を通して、歓喜を吸収する。私は大自然の中を不可思議な自由さで逍遥し、大自然の一部と化する。石の多い池の岸辺をシャツ一枚で歩いていると、涼しく曇っていて風があるが、私は特に私をひきつけるものは何も見ず、万有は異常に一心同体的だ。大ガエルたちはラッパを吹いて夜を招じ入れ、ヨタカの歌声は、ささやかな風に水の面から運ばれてくる。ゆれるハンノキやポプラの葉への共感は、ほとんど私の息を奪う。しかも湖と同じように、私の静寂はさざなみだつが、乱れはしない。宵の風に立てられる小さな波は、なめらかに反映する水面のように嵐からはほど遠い。もう暗くはなったけれど、まだ風は吹いて森に鳴り、なお波は走っているが、ある生き物たちは彼らの歌声で他をおししずめる。完全な憩いは決してこない。もっとも野性的な獣たちは憩うことなく、これから彼らの餌食を求めるのだ。キツネやイタチやウサギは、もはや恐れることなく野や森を彷徨する。彼らは大自然の夜番だ。――生きとし生けるもののいとなみの日々を結び合わせる媒介役だ。
 ‥‥たまに森へ来る訪問者は、森の何か小さな一片を手にとって、道々もて遊んでくるが、それを故意にか偶然にか、後に残していく。一人のものは柳の枝の皮を向き、それを輪に編んで私の卓上に落していた。いつも私は、自分の留守中に訪問者が来たかどうかを、もて遊んだ小枝や草や彼らの靴跡で知ることができた。そしてたいてい、性別や年齢や性質を、かすかに残された痕跡、たとえば落されている花、半マイルかなたの鉄道の辺まで持って行って捨ててある一束の摘み草、ただよう葉巻や刻みタバコの残り香などで知ることができた。否、しばしば私は、六十ロッドかなたの街道を旅人が通行するのも、彼のタバコの匂いで知らされるくらいだった。」


 さてさて、このごろぼくは朝の4時、5時ごろからランを連れて、毎日豆畑の草取りに行く。日中は苦しいほどの暑さが続いて、ついつい後回しになったやらねばならないことの結果が、畑に歴然と現れ、怠けるつもりは全くなかったが、気持ちの負担になっている。ジャガイモ収穫もまだだ。なんとか早く、草が豆の生長をとどめないように取ってやらねばならない。朝の涼しいうちに二時間ばかり、小鎌を使って草の根っこを切っていった。