ソロー「森の生活」 1


 「カッコ―の鳴いている間は、豆を播いてもいいだよ。」
 クルミの木のおばさんからそう聞いて、今年は芽の出ないたくさんの箇所に何回も黒豆を播き直した。この表現、いいなあと、心がほっと温かくなった。発芽の日のまちまちな畑だが、それでも今は9割芽を出している。
 今日もカッコ―の声が聞こえた。が、もう遠くの方で鳴いていて、今年のカッコ―の声も終わりのようだ。
 大和の国の信貴山の中腹に住んでいたころ、夏のこの時期になると暮れなずむ信貴山の方からヨタカが鳴きながら飛んできた。キョキョキョと細かく羽ばたきながら、毎晩ヨタカが声を響かせる。
 ソローの「森の生活」のなかに、こんな文章がある。ソローは、ウォールデン湖畔の森の中に自らの手で小屋を建て、自然に浸り思索し、自給自足の生活を営んだ。

 <夏の一時期には、規則正しく七時半に、夕方の列車が通過してから、ヨタカたちが入口のかたわらの木株や家の棟木にとまりながら、晩祷讃美歌を半時間唄った。毎晩、日没に照らし合わせて、特定の時間の五分間以内に、ほとんど時計にも似た正確さで、彼らは唄い始めるのだった。私は彼らの慣性を知る稀有な機会を得た。時折、森の種々な部分に同時に四羽か五羽が、偶然に一羽が他より一小節遅れて唄ったりするのが聞こえた。ひじょうに間近だったので、一節の終わり毎の吸入音がハッキリ聞き取れただけでなく、クモの巣にかかったハエのような、ただそれよりも比較的高い特種なうなるような声も、しばしば聞き取れた。時には、おそらくは私がその卵に近づいたりした折であろうか、一羽が森の中で、数フィートの距離を、くるくる私を飛び回ることもあった。彼らは時をへだてて夜中じゅう唄い、暁の前ごろに再び盛り返して唄い出した。>

 数日前の朝日新聞に、編集委員・福島申二の書いている文章があり、そこにソローの「森の生活」が出てきた。


 <一昨年の7月に亡くなった哲学者の鶴見俊輔さんから、一度だけはがきを頂戴した思い出がある。10年前、胸に響いた言葉についてお尋ねしたことへの、短いが親切な返信だった。
 『太鼓の音に足の合わぬ者をとがめるな。その人は、別の太鼓に聞き入っているのかもしれない』
 もとはソローの「森の生活」にある一節を、かつて鶴見さんが自分流にそう訳して話していたと、作家の故中野孝次さんの本で知った。心に残ったので、それは何かに書いたものですかと尋ねた。返信には、安保闘争さなかの1960年に月刊誌に寄せた文中の言葉だとあり、調べてみると、少し異なる表現だったが冒頭の題辞エピグラフ)として置かれていた。
 鶴見さんの名訳には中野さんも感銘をうけて、皆が一つの太鼓に足を合わせたファシズムの時代を引き合いに、自分と違う人間の存在を認める心を持つことこそが友愛の出発点だと述べていた。
 ささやかな記憶がふとよみがえったのは、この12日が思索家ソローの生誕200年と聞いたからである。
 アメリカの片田舎で小さな湖水を隣人として暮らし、「森の生活」を書いたソローは隠遁者のイメージがつよい。しかし骨太な反抗者でもあった。奴隷制度やメキシコを攻めた戦争を批判して納税を拒み続け、投獄されたこともある。
 誰かが税を立て替えて払ったので、意に反して一晩だけで釈放されたが、のちに次のような言葉を残している。
 「人間を不正に投獄する政府のもとでは、正しい人間が住むのにふさわしい場所もまた牢獄である」。良心にもとづく権力への不服従という思想は、ガンジーキング牧師らに大きな影響を与えてきた。
 それから時は流れたが、個々の人間の良心が権力によって弾圧される非道はいまも地上から消えることがない。ここにきて、長く獄中にあって末期がんを病む中国の人権活動家、劉暁波氏(61)の深刻な事態が世界に報じられている。
 祖国の民主化を求め続け、7年前に獄につながれたままノーベル平和賞を受けた人である。妻の劉霞さんが当時、当局を批判して「夫のたった1本のペンを怖がっている」と語っていたのが記憶に残る。中国の体制は今もって、一党独裁の太鼓とは違う音を鳴らす者も、それに聞き入る者にも寛容になることがない。
 劉氏に一つ明かりがあるとすれば、国際社会のまなざしが注がれていることだろう。世界には、その存在すら知られない受難者のほうが圧倒的に多い。


 みんなとは違う考えを持っている
  ただそれだけのことで拘束され
  誰にも知られず誰にも見えないところで
 問答無用に倒されてゆくのはどんな思いだろう。


 これは茨木のり子さんがアムネスティの人権報告に寄せた詩の一節だ。
 私たちのまなざしは、おそろしい暗黒と絶望に沈む人たちの明かりとなりうるか。「灯」と題する詩はそれを問うているように読める。悲劇を止めうる国際世論もまた、一人ひとりの微細な良心の集合体にほかならない。>

 
 今朝のニュースが、13日に劉暁波氏が亡くなったと伝えている。