人間のいちばん悲しい誤り



旅をしてきた。そこは森の国だった。その地の人、ヘルマン・ヘッセはこんな詩を詠んだ。



        旅の秘術
  
     あてどないさすらいは 青春の喜びだ。
     青春とともに その喜びも色あせた。
     それ以来、目あてと意志とを自覚すると、
     私はその場を去った。


     ただ目的だけをせわしく求める目には、
     さすらいの甘さは ついに味わわれない。
     森も流れも、
     あらゆる途上で待っている一切の壮観も、
     閉ざされたままだ。


     これからは、
     さらに旅を味得しなければならない。
     瞬間の汚れない輝きが、
     あこがれの星の前でも、
     薄れることのないように。
     

     旅の秘術は、
     世界の輪舞のなかに加わって
     ともに動き、
     憩うているときにも、
     愛する暗いかなたへ向かって、
     途上にあることだ。



 同じかの国の詩人ハイネは、「歌の本」の序にこんなことを書いた。

 

  おもえば、人間のいちばん悲しい誤りは、
  自然がこころよく恵んでくれた賜物を、愚かにも見損ない、
  かえって自分の手に届きそうもない財宝を、
  もっとも貴重と思いこむことです。
  大地のふところにしっかり抱かれている宝石や、
  海の底に奥底にかくされている真珠を、
  人間はこのうえもない宝と思うものですが、
  もしも自然が、
  小石や貝殻のように、
  それらを人間の足元に置いたとすれば、
  ほとんど一顧もはらわないでしょう。



 森の国から帰ってくると、一本の電話がかかってきた。電話の向こうの声が答えた。

「五年前からこの学校で校庭管理の仕事をしてきた人たちは、『創立当初からこの学校にはビオトープを作るという考えはなかった、今もそれを受け継ぎ、落ち葉を落とさず草もはやさず、きれいな校庭にする、ビオトープはつくれない』と言うんです。今の段階では教職員のなかでも意見が一致せず植樹もできません」。
 学校林、ビオトープをつくろうと市民が動いてきた。しかし教職員の理解は得られず、子どもたちの生活空間に、命が集う自然空間をつくること、ささやかな植樹もできないと言う。一年前からやってきた活動であったが、出発点から教職員の共通認識を得るための協議が欠落し、意志疎通が断絶していたのだ。学校管理職のリーダーシップが働いていなかった。

 ビオトープというのはドイツ語で生息場所の意味。小鳥や昆虫がやってくる生命が生まれる循環の場所。ぼくが以前「学校砂漠」だと言ったその校庭に、今年は昆虫の集まってくる小さな林が誕生する予定だった。それがうまく進まず、逆に、ただでさえ少ないその学校の何本かの空高くそびえるはずのケヤキの木々も、電柱のようにばっさり上部の枝すべてを伐り払われれていた。子どもたちの「安全」のために、葉や枝が落ちないようにするためだという。「安全」と「管理」の名目が優先する学校。
 森の国から帰ってきて、これが最初に襲いかかってきた落胆だった。

 ヘッセは詠った。



          短く伐られたカシの木


     カシの樹よ、
     お前はなんと切り詰められたことよ!
     なんとお前は異様に奇妙に立っていることよ!
     お前はなんと度々苦しめられたことだろう!
     とうとうお前の中にあるものは反抗と意志だけになった。
     私もお前と同じように、切り詰められ、
     悩まされても、生活と絶縁せず、
     毎日、むごい仕打ちをさんざんなめながらも、
     光りに向かって額をあげるのだ。
     私の中にあった、やさしいもの、やわらかなものを
     世間があざけって、息の根を止めてしまった。
     だが、私というものは金剛不壊だ。
     私は満足し、和解し、
     根気よく新しい葉を枝から出す。
     幾度引き裂かれても。
     そして、どんな悲しみにも逆らい、
     私は狂った世間を愛し続ける。