②『ゲルニカ』の物語


 1939年5月、作品『ゲルニカ』はアメリカ合衆国に送られ、その年に第二次世界大戦が勃発する。『ゲルニカ』はニューヨーク近代美術館に保管され、ピカソ展はアメリカ合衆国内で開催された。第二次大戦が終わると、1953年、『ゲルニカ』はヨーロッパに戻され、イタリア、ベルギー、スウェーデン、ドイツで出展され、再びアメリカ合衆国に戻る。ピカソ本人は「『ゲルニカ』がニューヨークにとどまり、スペイン人民の自由が確立した時にスペインに戻る」ことを希望した。このころ、スペインのバスク地方では、独裁政権への抵抗のシンボルとして『ゲルニカ』の複製を飾る家庭が多かったという。
 1960年、アメリカによるベトナム戦争が起こると、アメリカでも世界中でも反戦運動が起こり、絵は反戦のシンボルとなった。
 『ゲルニカ』のスペイン帰還決定は1981年。バスクの悲劇と自由への渇望のシンボルとしてバスク自治州は熱心に『ゲルニカ』を希望したが、マドリードプラド美術館に納められた。

 今発売の雑誌「クロワッサン」の6月号に、小説「暗幕のゲルニカ」を書いた原田マハの記事が載っている。原田マハは箱根のポーラ美術館で、「いまこそ≪ゲルニカ≫の話をしよう」と題した講演を行ない、こんなことを話した。


 ピカソが監修した『ゲルニカ』のタペストリーが世界に三点ある。一点は国連本部、二つ目はフランスの美術館、三点目は日本の群馬県立近代美術館にある。1936年にフランコ将軍がクーデターを起こし、それを支援するナチスドイツがゲルニカの街を空爆した。
 「自分にできるのは戦争で殺された人びとの叫びをカンヴァスに焼きつけることだ」、ピカソは絵筆をふるった。『ゲルニカ』はパリ万博に展示された後、ヨーロッパを巡回してアメリカに渡った。
 「スペインがファシズムの手に落ちたら、民主主義が訪れるまで、絶対に『ゲルニカ』をアメリカの外に出さないでほしい。」
 ピカソの願いどおり41年間『ゲルニカ』はアメリカにあったが、その間に三点のタペストリーがつくられた。そして2001年9月11日、アメリ同時多発テロが起こる。そしてアメリカの方向性はイラク攻撃へと進み、国連安保理イラク侵攻を議決した。発表は『ゲルニカ』の前で行なわれるのが通例だったが、このときは『ゲルニカ』に暗幕がかけられた。反戦と平和の象徴の前で、空爆を肯定する矛盾を隠したいからだ。しかし、隠したことで『ゲルニカ』のメッセージがより鮮明になった。私はこのことを忘れてはならないと思い、『暗幕のゲルニカ』を各決意をした。


 そういうことがあったのか、『ゲルニカ』には、多くの物語が潜んでいるようだと思う。ただし、この記事の「国連安保理イラク侵攻を議決した」というのには首をかしげた。
 2003年3月20日,米英軍は国連での合意がないまま対イラク攻撃を開始したのではなかったか。武力行使を明確に容認する国連安保理決議はなく、仏独露は反対したが、米は「イラク大量破壊兵器を開発している」とする「証拠」を掲げ、フセイン打倒をめざして戦争を進行させた。しかしブッシュが「戦争の大義」とした「証拠」は後に虚偽だったと判明する。
 するとこの記事はどういうことだろう。雑誌の記者の誤りか、それとも作者の誤りか。
 11月8日の「国連決議1441号」は、「1週間以内の査察を受け入れと30日以内にすべての大量破壊兵器に関する情報を開示」だった。フセイン大統領は査察受け入れを表明し、査察団を受け入れたが、2003年1月の中間報告は「大量破壊兵器」の確証は得られなかった。しかしアメリカは疑惑を払拭できないとして武力行使を決意、イギリスが同調、フランス、ロシア、中国などは査察継続を主張、国連安保理は意見が一致しなかった。それでもブッシュ大統領は、フセイン大統領の国外退去を求めて最終通告を行い、フセインが応じなかったため空爆を開始した。
 ブッシュ政権イラク攻撃に踏み切った理由については、公式には「大量破壊兵器の隠匿」が「国連決議」に違反するということとされているが、その後、大量破壊兵器の存在は証明されておらず、アメリカ政府もすでに破棄されていたことを正式に認めた。また国連決議についても、フランス・ドイツなどは査察の継続を主張して反対した。この軍事行動は、アメリカ軍とイギリス軍など30数ヶ国の「有志連合」によるものだった。
 国連の『ゲルニカタペストリーに暗幕をかけざるをえなかったのは、このようなあいまいさによる戦争への想いがあって、そうしたのではないだろうか。