長田弘の詩、三編 (その二)


 「長田弘全詩集(みすず書房)」を読むと、しみじみと心に響いてくる軽妙な詩に次々と出会う。
 ちょっと変わった詩を紹介しよう。こういう詩を読むと、なんだか心が軽くなる。楽しくなってくる。いいね。


       ヨアヒムさんの学校


物の見方を、この世界の秘密をおしえてくれる先生
なんて、めったにいない。ヨアヒムさんは、物の見
方を、この世界の秘密をおしえてくれた、路上の学
校の先生だった。
ある日、先生は、地球儀を手に、どこにわれわれの
理性があるのか、おしえてくれた。先生によれば、
理性は地球のお尻にある。されば、地球は、そして
地球の上のわれわれもまた、じぶんのお尻にある理
性を探して、くる日もくる日も自転しているのだ。
きみをささえているのは、日常、きみにいちばん身
近なもの。すなわち、靴底だ。きみは靴底なしには、
どこへもゆけない。靴底はきみのために、日夜身を
すりへらしているのだ。じぶんの靴底を愛しえぬも
のは、じぶんの魂をも愛しえぬものだ、と先生は言
った。
ヨアヒム先生の路上の学校で、物の見方を、この世
界の秘密を学べ。ヨアヒム先生の学校には試験はな
い。いつでも誰でも入学できるし、校則も制服もい
っさいない。自由しかない。ただし、生徒はつねに
きみ一人だ。けれども、そこには、誰も教えてくれ
ないことを、すべて惜しまず一対一でおしえてくれ
る。変わり者の優しい先生がいる。リンゲルナッツ
詩集というのが、ヨアヒム先生の学校の名だ。



 この詩を読んで、ヨアヒム・リンゲルナッツって、いったい誰なんだ?と思った次第。実際そういう路上学校をやっていたのかどうか知らない。ヨアヒムさんの詩と人生がひとつの路上学校なんだ。そこでヨアヒムさんのことを調べてみたい。
 リンゲルナッツはドイツの詩人、作家、画家だったそうだ。ヨアヒム・リンゲルナッツ(1883〜1934年)は、学校生活になじまなかった。放校、中退、見習い水夫。虐待されて脱走、世界中をまわり、雑役夫、屋根葺きの職など転々。酒場で自作の詩を朗読して好評を博し、専属詩人となる。煙草屋、店内装飾、占い師、城の案内人、海軍入隊、芸人などいろんな職を経ながら、カバレットで自作の朗読をしてまわる。絵の個展を開いたり劇をつくったりもした。晩年にはミュンヘンハンブルグなどではリンゲルナッツの朗読は禁止されたと書いてあったがなぜなのか詳しいことが分からない。
 長田弘はこの奇想天外な詩人の生涯を知り、彼の詩を読んで、この詩をつくったんだろう。長田弘の詩には、ヨアヒムさんが乗り移っているようだ。ヨアヒムさんは、かそけくも弱い生き物や、だれからも注目されることのない物に心を寄せて、軽妙でユーモアのある詩を書いた
 こんなヨアヒムさんの詩を見つけた。


地球儀がこっそり こまっちゃくれて
白い、賢い、見きわめもつかぬ広漠たる壁にきいた
――どこに一体、僕らの理性はあるのかね

壁はしばらく考えたが
――君んところじゃお尻だね

『地球儀』より(板倉鞆音訳『動物園の麒麟国書刊行会収録)