内山節の「自然の奥の神々」


 白樺は、黄色く色付き、ヤマボウシハナミズキは紅く色付いた。里山のカラマツも黄金色になりつつある。
 子スズメたちの初めての冬の宿は、白バラとモッコウバラが織りこんだ茂みだ。毎朝毎夕、スズメたちは群れ、茂みの枝に止まって羽づくろいをし仲間たちとおしゃべりざんまいで過ごす。そのおしゃべりたるや、実に豊かなコミュニケーション、ぼくは天真爛漫なその声に聞き惚れる。朝、霧雨が降っていたが、やがて止んだ。スズメたちはみんなで、田んぼや野原のあちこちへ食べものを探しに出かけた。
 我が家の周囲の田んぼで工事が始まっている。構造改善、すなわち圃場整備という工事で、これまでの田んぼの畔を取り払って一枚を大きく広げ、きちんとした長方形に造り直す。大型の農業機械が作業しやすいようにするためだ。田んぼの土を削り取り、畔も水路も付け替えて、最後に土を戻し、すべてが直線の世界になる。
 これまでも繰り返してきた構造改善によって、より効率的で便利な耕作地が生まれる。だが、それは同時にこの地方から田の神が去っていくことになってしまった。
 群馬県上野村に住む内山節が「自然の奥の神々 ――哲学者とともに考える環境問題」に書いていた。
 上野村の祭りに、「川下げ」という行事が行なわれる。村人が神輿をかついで川に入り、川の中に置かれた台に神輿を置く。神主は神輿の下流に立ち、祝詞をあげる。人びとも川の中や岸辺の下流に立って、神輿の向こうにある上流と山を見る。そうすると、山から流れ出た水が、いま足元を流れていくように見える。上流の山が山神の祀られている山、その山から水のしたたり落ちる場所が水神の祀られている水源だ。そして自分たちが立っている周囲に、自分たちの暮らす里が広がっている。


 「この祭りをとおして村人たちは、自分たちがどんな世界に生きているのかを、毎年再認識するのである。奥に山神の守る森がある。そこから水神が守っている水が流れ落ちてくる。この世界に支えられて、自分たちの暮らす里がひろがる。
 自分たちの暮らす世界というと、どんなかたち、どんな構造によって成り立っている世界か、というように思われるかもしれない。だが、かつての人びとが感じとっていた自分たちの暮らす世界とは、そういう構造的な世界としてとらえていたのではない。どういう動きのなかに展開している世界か、である。
 山神に守られた森の動き、水神に守られた水の動き、そしてそれらに支えられながら展開する里の動き。この動きゆく世界のなかに自分たちは暮らしていると感じていた。森羅万象の世界のなかに。
 だから森の動きも水の動きも空の動きも、さまざまな表現を見せる。さまざまに生命の色を見せるのである。人びとはその生命の動きのなかに色を見た。色のなかに、祈りの世界を感じた。
 私たちは、これまで安易に自然とは何かを語りすぎたようだ。語ってきたことが誤っていたというわけではない。自然には、まだその先があるということである。
 人間はどのように自然とつきあっていったらよいのか。
 それは自然をどのようなものとしてみるかということと一体のものである。かつて人びとは、オノズカラのままに展開する自然が生み出す色に、生命の根本的なありようを、霊的世界をみた。」

 
 今は田んぼは米を生産する工場になった。この数十年、自然を開発してカネにすることが盛んに行われ、そうして自然への見方が変わった。内山節は、自然観の変質が現代の問題につながっていると考える。内山は自然の霊性をとらえる。

 「美しい自然と語っているものも、自然はひとつの生態系だと語っているものも、出口としては知性である。しかしその奥には身体性や霊性でとらえられ、認識される自然がある。‥‥
 近代的な思考に埋没する以前の人びとはそうではなかった。知性による認識以上に、身体性による認識や霊性による認識を重要視していた。語りえぬものの方に根本があり、語りえるものは知性というフィルターをとおして生まれた表面的なものだと感じていたのである。この霊性や身体性をとおしてとらえられた自然に、人びとは絶対的な善を、真理を、神仏をみたのである。オノズカラのままに展開する動きにこそ、この世界の絶対的な真理があることを。
 なぜそこに真理を感じることができたのかといえば、自分自身を悲しい存在だと感じていたからである。『私』をもち、その結果目的意識などをもって、煩悩にまみれていく自分を悲しき存在と感じた。だからこそ『私』を捨てた世界、オノズカラのままに生きることは理想だった。そうなれば、この悲しき存在から解放されるのである。」