少しずつ元気が回復してきた


庭から声が聞こえてきた。
庭に出ることができたんだ、ほっ、安堵した。
今日は、別の病院へもう行かないと言う。
行く気が起こらないと言う。
かかっている医者へも行かない、新たな病院へも行く気にならない。
薬も飲むのをやめる。
そう思うのならそうするかね。様子を見るかね。

「これ持って行ってきとくれ」
ミヨさんが頼んだのは、高齢者お楽しみ会への不参加の返事を入れた封筒、
隣組長さんの家にもっていっておくれ」
OK、それを持って、Y子さんの家に行った。
ニコニコ顔で出てきたY子さんにミヨさんの状態を伝え、封筒を渡した。
「今かかっているお医者さんに不信感を持っているんですよ」
ミヨさんの言っていた不信感の原因とは、
高飛車な命令調の言い方、パソコンばかり見て顔を見なかった、
きちんとした説明もなく、
いきなり11種類の薬を処方した、
それが拒否感になった。
Y子さんは納得のいかない顔をした。
「わたしの主人も同じお医者さんに診てもらっているけど、あの先生は、ああいう言い方なのよ。だけど、わたしは全面的に信頼しているよ。その先生は往診もしてくれますよ、予約しておけば来てくれますよ。信頼しなければだめなのよ」
その先生、率直でぶっきらぼうな言い方をする人なのかもしれない。
「それはいい話を聞きました。さっそく伝えますよ」
秋晴れの昼間の気温がひさしぶりに上がった。
草むらに彼岸花がひっそり咲いている。このあたり、見かけることもない彼岸花
野沢菜の種まきも、ニンニクの球根植えも終わった。クルミの樹の家の畑に、新米を脱穀したばかりのモミガラが山になっている。
「ください」と言うと、「どうぞどうぞ、いくらでも」とおばさん。野沢菜とニンニクの畝に、モミガラを敷いた。
日が西に傾くころミヨさんが庭で犬とお話している。
元気になってきた、いい調子だ。
「Y子さんがねえ、あのお医者さん、往診してくれるんだって」
「知ってるよ。お医者さんは代えないよ。でもねえ、あんなにたくさん薬飲めないよ。薬やめたら、歩けるようになったよ。ほれほれ」
ミヨさんは足踏みをする。
「あの先生、評判はいいよ。そう聞くよ。
でもね、いい人にはいいよ、よくない人にはよくないんだよ。人間、相手によって変わるじ。
はじめ診てもらったときは、『治してあげます』と言ってくれたからね、
この先生はいい先生だと思ったんだよ。
でもね、11種類もの薬、びっくりするよ。
腎臓よくない。塩をとったらダメだぞ、と言うじゃ。
腎臓って、どこにあるのか、何をするところなのか、よく知らないだよ。
それを聞けば、叱られるかもと思うと聞けないよ」
初め、よい先生だと思った、それがいやな先生に変わってしまった。そして今、迷っている。
医師の感情も、言葉や態度も、対する患者によって変化することがあるだろう。
接する患者の何かにいらっとすることもあるだろう。ぼろくそに叱りたくなることもあるだろう。
ほんのちょっと、そのときの感情や考え、思いで、相手の心境を害してしまう。人と人との関係が、その一言でひっくりかえってしまう。よくあることだ。
医師の発する言葉や態度の元になる感情や心境、思いや考えがある。
患者を診る時、患者の現象に反応する。
ミヨさんがどんな人生を歩んできて、どんな境遇に今いるのか、
どんな人なのか、今どんな悩みや不安を抱えているのか、
それを知ることはない。知らないで人を見る。そして病状を診る。
次から次へと来る患者に充分時間をさくことができない。どうしても現象面だけで処理することになる。
しかし治療は人を知ることで深まるのではないかと思う。


これは教師にも通じる。
生徒の現象面だけを見て、その現象の奥にあるものを見ない。
授業態度、生活態度、成績、それらは教師の目に映る現象、それにとらわれる。
現象の奥にあるもの、その子の家庭、暮らし方、家族・親子の関係、友だち関係、
そして心の中にあるもの、その子の奥にある、目に見えないもの、
それを知ろうとしないで「教えること」だけを仕事としている教師。
先日、通信制高校でこんな生徒に出会った。
彼はほんとにたまに、学校にやってきた。初めて出会った生徒だった。
マンツーマンで国語の勉強をした。教材に、
「少年の時に好きであったものを大人になってもずっと好きでいることの大切さ」
というのが出てきた。
「君は何が好き?」
「好きなものはない」
「食べもので好きなものは?」
「ない」
「歌、遊び、スポーツ、ゲームとかでは?」
「ない」
何を聞いても「ない」と言う。
「好きなもの、そのうち出てくるよ。好きなものがあるけど、気がついていないのかも」
とぼくは言ったが、「好きなものはない」という奥に潜んでいる何かを感じる。
なんだかすごく寂寥感があった。虚無的なものを感じた。
出会う機会がもっとあれば、
彼の人生の今が分かるような気がする。