ひざの軟骨がすり減った

何かの動物の頭蓋骨。ハクビシンかキツネか、なんだろう。

 常念山脈から流れ落ちる烏川渓谷まで登り、ぐるっと回って帰ってくる朝のウォーキングができなくなった。
 8月に入った頃から、左ひざに痛みが出るようになり、どこかいい医者はいないかなと、散歩していたとき、久しぶりに出会った犬のスズちゃんのおばさんに聞くと、一軒の医者の名前を教えてくれた。
 その整形外科の医院に入ると、待合室で2、30人の高齢者がテレビを見ている。へーっ、一人の医師がこんなにたくさんの人を診ているのか、こりゃ時間がかかるな。まあ待つべ。
 待つ時間はよい読書環境になる。テレビの音のあまり聞こえない端の方に行って、持って来た本を出して読む。20ページほど読んだところで声がかかった。
 診察室に入ると、医師は隣の診察室で患者にアドバイスしている。二人の声が聞こえてくる。その患者もひざか腰のようだ。まったく高齢者の多くは故障だらけだ。ぼくはベッドに横になった。
「いやあ、お待たせしましたあ」
 現れた医師は小柄で気さくな人だった。
「24キロの犬ですか、大きな犬ですな。それがぶつかったのが原因かも? そりゃ関係ないでしょうな。ほれこのように、軟骨すり減っていますよ。内側の軟骨、レントゲンのこの写真、内側のこの軟骨と外側のこの軟骨と、ほれ、内側が。なんかきっかけがあって、軟骨のかけらが出て、歩くとそれが中でぶつかって、よけい擦り減っていくんですな。それに、体の姿勢が、ゆがんでいるんですな、だから重心が内側にかかっているんでしょうな。登山? それは無理ですな。」
 この夏までガンガン歩いてきた。十月に白馬岳に登る計画だったがおじゃんになった。医師は注射器で、ひざに溜まっていた水を抜き、薬を注入した。
「ほれこれだけ、水溜まってましたよ」
 医師は注射器を見せた。二つの行為は一瞬の間に終わった。手品みたいだ。
「一週間に一回ずつ、この薬を入れます。5回です。」
 そうして家で湿布薬と飲み薬を毎日。座っていて立つ時、寝ていて起きる時、ギクッと痛む。歩くとかすかにコキンコキンと音がする。軟骨が復活することはないようだ。この状態で、あとは無理せず、故障と付き合っていくしかない。ウォーキングの距離は極端に短縮した。ランがウンチをしたら、野道を帰ってくる。
 一カ月が経った。あと一回薬の注入がある。
 日本語教室のスタッフをしている高橋さんが言った。
「私は腰でね。ずーっと、なおらないね。みんなどこか故障持っているだね。みんな痛いところと付き合ってるだ」

 4年ほど前に庭に植えたカツラの苗樹が、模範生のようにすくすく伸びて、見事なスタイルになっていた。高さは5メートルぐらいにもなり枝を茂らせた。その樹が、この夏の炎熱の続くさなか、枝の数本が枯れ始めた。水不足だと思い、100メートルほど離れたところの水路からポリタンクに水を汲み、一輪車で運んできてどどっと樹の周りに入れた。他の樹や野菜畑も暑さと乾燥にあえいでいたから、毎日タンク12本分を運んでいた。この作業もひざにこたえた。
 白樺の樹の肌は、幼樹の特徴であるベージュ色だったが、もう軒を越す高さになり、青年の樹になったようで、大人の印である白い幹が中から現れてきた。幼い時のベージュ色の表皮が薄くところどころめくれ始め、その内側の白い幹が次第に拡大していく様子が新鮮だ。白樺の寿命はそんなに長くないという。20年か、30年、と農学者の辻井達一が書いている。老樹になると樹肌の白いのがなくなってくる。
 辻井さんは、カツラについてこんなことを書いている。
アメリカへは1878年に、種子が札幌から送られている。ハドソン河畔にも1896年植樹のものがあるというから、カツラのアメリカにおける評価は早くかつ高いものがあったというべきであろう。ところが日本ではかえって街路樹や公園樹として用いられなかった。かなり潤沢な水を必要とする樹で、しかもその水は溜まり水でなく、動いていることが望ましいという条件がつくから、街路樹に仕立てるのは厄介だと考えられたのかもしれない。でも皆無ではなくて、たとえば軽井沢にはその並木があり、北海道では羊蹄山麓に並木や造林が、また網走市には桂ヶ丘公園の名にちなんで市内に並木がつくられている。」(「日本の樹木」中公新書
 我が家のカツラ、幹の下部の一部が大きく削られたように、はがれている。順調にすくすく育っているように見えていたカツラだが、これまで枯死した何本かの樹の例もあるから、注意しなければと思う。枯死したのは、カエデ、白樺、ライラック、ツバキ、ブナ、すくすく育ってきて、突如枯れた。植物はもの言わない。樹の声は、観察で聴くしかない。