ブログ停止の顛末と「星めぐりの歌」の歌詞の削除


 私のこのブログは、しばらくの間公開停止になっていた。初めの段階は、未公開になっていることが分からず、いつものように文章を書いてアップしていた。変だなと思ったのは、二週間ほど前、カウンターの欄が3とか4とかという数字が続き、それまでの数から激減していることだった。何かが起こっているなと思った。そこで息子に連絡とをって調べてもらうと、やっぱりブログが開かない、という。決定的だったのは、私のブログを読んでくださっている人からメールをいただいたことだった。
 「児童詩『汽笛』の件で、何度か投稿させていただいた者ですが、久しぶりにブログにアクセスしたところ、どうやってもつながりません。何らかの事情で閉鎖されたようです。」
 高橋さんとおっしゃる方からのメール、兵庫県からだった。高橋さんは、ブログが開かないから私の安否を気づかってくださっていた。「児童詩『汽笛』の件」、ああ、あのときの方だ。わざわざ私の職場を調べてメールをくださったのだ。そのときの記憶がよみがえり、胸が熱くなった。
 ブログが閉鎖されていることは決定的になった。そこでブログサービスをしてくれている会社に原因を問うた。その返事は、「著作権侵害」だという。なんだって?
 返事にこうある。
 「ご利用のはてなダイアリー内に掲載されている歌詞に対して、JASRACより著作権侵害であるとの通知および削除要請がありましたため、2015年1月7日に、削除を依頼するメールをお送りいたしました。しかしながら、所定の期間内に削除が行われませんでしたので、はてなダイアリーの公開を停止しています。歌詞を削除していただけました場合、公開可能な状態に設定いたしますので、お知らせいただければ幸いです。楽曲名:星めぐりの歌。楽曲名:おうま」
 確かにそういうことが以前あった。それについては、その時すぐに削除はしたはずだ。削除したにもかかわらず、またこういうことなのか。
 調べてみると、私の記憶に反して「星めぐりの歌」は、削除した日とは別の日にも書いていた。結局、その漏れ落ちが今回の処置になったのだ。私は漏れ落ちを全部削除してそのてんまつを書き、ブログサービスの会社に送った。
 こうして一件落着になったのだが、停止という事態に遭った私の思いは複雑になった。
 「星めぐりの歌」は宮澤賢治が作詞作曲した。私がブログに「星めぐりの歌」の詩を書いたのは、次のような文章(要約)の中だった。(■が削除した歌詞のあったところ)
 2013・2・8の記事
宮沢賢治の作品には、星がよく登場する。「よだかの星」、「銀河鉄道の夜」、「雁の童子」。‥‥
 宮沢賢治の作詞作曲になる「星めぐりの歌」という素朴な曲がある。そこには、いくつも星座が歌われている。
   ■ (歌詞)
 歌われているのは、夏の星座である「さそり座」、「鷲座」、「子犬座」、「へび座」、冬の星座の「オリオン星団」、「アンドロメダ大星雲」、北斗七星を含む「大熊座」、北極星を含む「小熊座」、「北極星」。
 賢治の作品には、賢治の銀河宇宙観が現れている。少年が銀河鉄道に乗って銀河系を旅する「銀河鉄道の夜」には、いろんな星座・星雲が出てくる。琴座、白鳥座、鷲座、インディアン座、さそり座、ケンタウルス座、南十字星、石炭袋、牡牛座、マゼラン星雲。
 梅原猛はこんなことを書いている。
『賢治の世界観がわかり、賢治の言葉が十分理解されるようになるには、現在われわれの立っている近代世界観が根底で崩壊し、現代人が真剣に新しい世界観を求めるようになってからであろう。賢治の謎が完全に解かれるのは、二十一世紀という世紀を待たねばならないと思う。』」
 2012・11・8の記事
「80歳を迎えた富田勲が、昨年『イーハトーヴ交響曲』を創った。この交響楽を完成させるまでの密着ドキュメントを見た。
 富田さんは父の仕事で4歳から中国に住んだ。その直後に日中戦争が始まる。7歳のときに父の実家の愛知県岡崎に引き上げ、その2年後、太平洋戦争が勃発。そして1945年1月に直下型の三河地震が襲った。助けは来ず、救援物資はなく、人々は、食べものも、避難するところもない真冬の寒さで凍え死んでいった。そこに空襲が来た。冨田さんの人生はそこから始まり、その悲惨な体験が富田さんの人格をつくっていった。傷ついた富田さんを勇気づけたのは、宮澤賢治の作品だった。
 交響曲のなかには、賢治の作曲した歌も入っている。
 交響曲は、種山ヶ原の牧歌の合唱で始まった。
 そして「フランスの山人の歌による交響曲」の牧歌をオーケストラが奏でる。やがて、「星めぐりの歌」、「注文の多い料理店」、「風の又三郎」、「銀河鉄道の夜」、「雨ニモマケズ」と楽章が展開し、種山ヶ原の牧歌で終わる。
     ■ (歌詞)」
 2013・9・27の記事
「朝ドラの「あまちゃん」、明日で終わる。実におもしろかった。宮藤官九郎脚本の展開と描写の妙、ストーリィ・脚色、俳優の演技も、魅力あふれていた。東北を舞台にして生きる人びとの群像に、いくつも障壁が立ち現れる。そして東日本大震災地に向かって歴史が進む。困難、葛藤を乗り越えていくユーモアあふれる人間模様は笑いと涙だった。家族や故郷、都会と地方、テーマは多彩多様であった。
 このドラマのバックグラウンドミュージックに、宮沢賢治の『星めぐりの歌』がときどき流れた。ある時のあるシーンに、制作者はこの歌を流したいと思った。人間の心と風土が交わり香るシーン、そこにこの歌が流れる。すると、賢治が顔を出す。今朝も、『星めぐりの歌』のメロディが静かにやってきた。心がしんみりとする。
    ■ (歌詞)」


 以上が「星めぐりの歌」を削除した文章であった。
 愛する歌や詩はその人のなかに生きている。あるとき、その人の心の状態によってその歌や詩が響きだす。賢治の心が、それを愛する人の心のなかで歌いだす。そうして、私は、心に響いてきた賢治の詩を、このように文章のなかに入れた。それが著作権に抵触すると指摘された。その詩や歌は、その人の中だけで使うならば問題はない。だが、メディアなどを使ってそれを拡大すると著作権の侵害になる。したがって関係機関JASRAC日本音楽著作権協会)の許諾を得、場合によっては対価を払わなければならない。
 著作者の権利を守るのは当然のことである。曲や歌詞を使う場合は、著作者の権利を擁護して、手続きを取ればいいことである。それにもかかわらず、なんとなく空しい思いがした。私の文章から、賢治さんの詩、心、思想、宇宙観を削除してしまったのだから。
 あの詩、消してしまったよ、賢治さん。
 賢治さんは愕然とするだろう。