蚊の話

 デング熱発生のニュースがこのところ毎日のようにある。とうとう今日で確認は98人とか。
 ぼくが初めてデング熱という熱帯地方で蚊に刺されて発症する伝染病を知ったのは、学生のころ太平洋戦争の戦記を読んだときだった。ニューギニアなど南方戦線で戦う日本軍は、猛烈な米軍の攻撃にさらされながらマラリアにかかったりデング熱に感染したりして野戦病院に収容され、命を落とす兵士もいた。兵たちは泥沼やジャングルをはいずりまわる。南洋の戦場には蚊が多い。マラリヤ感染は特に多かった。
 小学生のころ、ぼくと兄は、夏の蚊対策に一生懸命だった。家の隣が町の墓地だったから、墓石の花活けで蚊が発生する。それが襲ってくる。夜は蚊帳を吊って、家族みんなゴロゴロ寝るが、蚊帳の中に入るときに、人間と一緒に蚊も侵入してくるからやっかいだった。まずうちわでパタパタあおいで蚊を追い散らし、瞬時に蚊帳のすそを持ち上げくぐって入る。それでも蚊は数匹入った。入った蚊を手でぱちんぱちんと叩く。窓も縁側も開放してあるから、蚊はいくらでも侵入してくる。そこで、対策に子どもが立ち上がるわけだ。夕方になると兄とぼくは、蚊遣火(かやりび)を焚く。除虫菊の半分生の葉や茎をかんてき(しちりん)の火でいぶして、煙をもうもうと立て、部屋中に充満させた。こうしてしばらくは蚊を撃退することができたが、就寝のころにはもう煙はないから、蚊取り線香を焚くしかなかった。夏は毎年こういう生活のくりかえし、網戸が登場するのはもっと後だった。
冬にはネズミが部屋に侵入してくるから、ネズミ退治は冬の子どもの仕事だった。夏は蚊退治、冬はネズミ退治というわけだ。このネズミ退治がまたひとつの物語になるくらいだった。
 時代と共に住環境は急激に変わり、蚊帳のお世話になることがなくなったとき、子ども時代は終わっていた。
 それからの暮らしでは蚊のことはほとんど問題になることはなかった。
 ぼくはさまざまな人生の遍歴を経て、60過ぎてから大阪と奈良の境にそびえる金剛山の麓に移住した。そこは葛城古道の通る村で、日本の歴史でももっとも古い地域だった。住んだ家は、もと大学教授だった木村さんが25年前まで住んでいた古家だった。夏前にそこに住むことになり、当然蚊の対策を考えておかなければならなかったのだが、それがぬかっていた。木造の築75年の家には、網戸がなかった。窓を開けて寝ていたら、蚊が押し寄せてきた。あわてて蚊取り線香をあちこちに置いて、何とか夜を過ごすこととなった。それを知った教え子の貞子さんは、家にあったという蚊帳を送ってきてくれた。
 そこに住んで畑を耕し暮らしていたとき、中国武漢で知り合った人で、日本語教師をしていた女性が遊びに来た。彼女と一緒にぼくの耕していた背戸の畑に行ったとき、わずか10分ぐらいの間に、彼女は20箇所ほども蚊に刺された。ぼくはいっこうに刺されない。若い女性は新陳代謝が違うから、蚊のほうもよく分かるらしい。この村に5年住んだが、自然が豊かだけに蚊も多く、夜中に蚊がプーンと飛んできて顔の周りを飛び回りそれで目が覚めて蚊退治をしなければならないときがときどきある。いちばん遅い日が12月28日だったと思っていたら、翌年は1月中ごろにプーンとやってきたときは最高記録で、開いた口がふさがらなかった。家の外も家の中も、温度が変らないと思うほど寒い家で、それでも蚊がいた。
 9年前、安曇野に中古の家を手に入れて引越ししてきたときは、夏に蚊がいないことに驚いた。ここには蚊がいない、なんと快適なことかと、会う人ごとにこの地区には蚊がいないのですねえと言ったりした。けれど相手は「そうですよ、ここには蚊がいませんよ」とは言わなかった。なんとなくけげんな顔をする。そこで推察した。この家の庭には草も生えていなかったから、蚊のわきようがなかったのだろうと。今考えると、地域全体に蚊が少ないのは、池や水溜りがなく、水田も除草剤なども投入されていて、蚊の発生場所になりにくいからだろう。
 ところがここ数年、我が家の庭が変化した。庭に樹を植え、花を植え、畑をつくり、いっさい除草剤を使わないでやっていくうちに、いろんな草がばんばん育つようになり、庭の環境が完全に変わってしまった。生物たちの楽園になってきた途端、蚊が住むようになった。カタツムリも見られる。いったいどこから、どうやってやってきたのだろう。
 今日夕方、チェーンソーで木を切っていたら、半そでの腕に蚊がまといつき、2,3箇所刺された。秋の蚊はしつこい。
 蚊がいる、飛ぶ虫がいる。だからトンボもやってくる。コウモリも来る。クモも巣をはる。
 先日、部屋の中で蚊を見つけた。とうとう侵入したか。いよいよ自然環境が整ってきた。
 しかし蚊には刺されたくない。デング熱には気をつけよう。