生活圏のなかの森と川のもたらすもの



 23日の土曜日夕方、地球宿で「福島の親子保養ステイ」の報告会があった。20人ほどの人たちが集まり、「どあい冒険くらぶ」大浜隊長が、写真をスクリーンに映写して、キャンプの様子を説明した。それに続いてみんなで輪になり、「安曇野地球宿」の望三郎君の進行で、それぞれ自分のかかわってきたところでの感想を出し合った。直接子どもたちに接してきた人、プロジェクトを資金面で支える活動をしてきた人、その思いと体験したことを自由に出し合う。ふすまを取り払った二間の和室、座布団に正座し、あぐらをかき、脚を投げ出し、自分なりの姿があった。その雰囲気にもこのプロジェクトの性格がよく現れれていた。
 第1回のキャンプから今度の第3回までの2年間、子どもたちの成長も大きかった。子どもたちの遊びに見られた魂の輝き、親や祖父母の、ほぐされた体と安らかに充たされた心、運動を支えてきた人たちのひたすらそこに幸せを生み出そうとした祈りにも似た行為、それらがこのひとつの企画のなかに通いあっていた。
 谷川での水遊びの映像は、これが子どもなんだ、という子どもの原風景だった。2メートルほど上から水が滝になって流れ落ちてくる堰堤。子どもたちはその滝水に打たれ、水の幕の裏側に入る冒険をする。水にもぐる。水を掛け合う。魚をとる。
 水と子ども、森と子ども、虫や魚と子ども、空と子ども、遊びと子ども、夏と子ども、その世界がキャンプの暮らしにあった。管理されることなく、拘束されることなく、自発性を発揮して自然とたわむれ野性に触れる、これはすべての子どもたちに取り戻すべき、子どもの人生であり権利なのだ。

 森と人間ということでは、老いた人にとっても言えることがある。かつて生気象学の研究家だった神山恵三が「森の不思議」(岩波新書)の最後に述べたのは次の言葉であった。

 <思索するとか哲学するといった崇高な精神活動のためでなくても、年老いた人びとが、一日のうちに一定時間、散歩にやってきてしばし憩える、夏は涼しく冬は暖かい、静かで安全な空間を各地に設けたいものである。それには、小公園とか社寺林とか、あるいは団地の中の一定のオープン・スペースに、中心になるような、できれば夏は木陰を提供し、冬には葉の落ちた枝の間から陽がさんさんと降りそそいでくるような巨木を移植し、その巨木にまつわる伝承が掲示されるようならばいっそう好ましい。その巨木を中心にベンチが配置され、そのベンチも、老人が安全に座り立ちできるように、ひじかけは一脚ずつ付いていなければならないであろう。
 老人たちが一人ひとり孤独にならないよう、仲間同士で語り合いもできるように、ベンチの何脚かは集合され、それには、ちょっとしたテーブルも付置されていればなお良いであろう。
 今後、森林浴療法は、だんだんとりあげられていくであろうし、また、市民の健康活動の中でも、森林浴の役割があらためて認識されていくであろう。そのためには、緑を守り育て、自然保護の国民的な要望と結びついて、その意義と重要性とが市民の間に広がっていくことが何よりも大切である。>

 日本の都市計画を抜本的に見直し、市民の生活基盤の質を変える。そういうプロジェクトを立ち上げられないか。
 学校のなかに森をつくる。
 病院付属の樹林園地をつくる。
 ショッピングセンターには、オアシスになる林と公園をつくる。
 新興住宅地は緑のベルト地帯が囲む。
 江戸時代、一里塚が街道に作られていた。室町時代からあったとも言われている。街道の両側に一里ごとに土を盛り、そこを里程標として、エノキや松が植えられていた。1里は約4キロメートル。一里塚の樹木は大きく空をおおい、旅人はその木陰で休んだ。
 現代の一里塚になるもの、それがメイン道路にそってところどころにつくられ、オアシスになる。
 そんな都市計画がつくれないものか。