ヘッセ、放浪する人<3> 「おお、友よ、その調子をやめよ!」――第一次世界大戦開戦にあたっての訴え

 第一次世界大戦においても、第二次世界大戦でも、ヘッセは反戦・平和主義を貫いた。
 ヘッセは1877年、南ドイツのモミの森に沿って流れるナゴルルト川の近くの村で生まれた。詩的性情が強く典型的なドイツ人の住むシュワーベンだった。祖母はフランス系スイス人、父はドイツ系ロシア人で牧師、叔父はアメリカで牧師、従兄は日本に渡って、能や禅の研究をした。そういう環境のなかで、ヘッセは若くしてさすらいびとになり、世界市民的な思想をもつようになった。それでも、彼の心のなかには常に故郷があった。
 1914年、ヘッセ37歳のとき、第一次世界大戦が始まる。その2年前、彼はスイスに移住していた。ヘッセは「おお、友よ、その調子をやめよ!」という意見文をスイスの「新チュウリッヒ新聞」に発表する。文化にたずさわっているものまでが戦争を賛美し、敵国への憎悪をかきたてることに熱中している、その調子をやめよ、と。そのタイトルは、ベートーヴェンの第九シンフォニーの「合唱」の導入に歌われる言葉であった。ドイツにとっては敵国であったフランスで、ヘッセと立場を同じくする平和主義者ロマン・ロランはこれを読んで共鳴し、ヘッセを訪問して、親交を深めた。
 ヘッセはドイツにおいて、「裏切り者」「売国奴」と一斉攻撃を受けた。ジャーナリズムは彼を排斥した。


 「おお、友よ、その調子をやめよ!」、日本の学校で世界史を教えるとき、歴史を教えることとはどういうことか、考える材料となる文章である。小文ではあるが、それを抜粋・要約をしておこう。

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     「おお、友よ、その調子をやめよ!」

 人類に仕え、超国民的な人類の理念の存在を信じてきた人たちが、今理念を固守することが骨の折れることとなり、危険となり、存在できるかできないかという問題になって、こっそり逃げ出し、隣人の耳に快い調子を歌う。それは愛国心や自国民への愛にさからわない。
 わたしとて、祖国を否定しようなどとは毛頭思わない。兵士に義務の遂行をやめさせることなど、わたしには思いもつかない。
 毎日、すべての国々の芸術家や学者や旅行家や翻訳家やジャーナリストたちのなかの、善意ある人々が、一生かけて努力してきたものがたくさん破壊されている。
 だが、人類の理念、国際的な科学、芸術の美しさを信じた人が、非常事態に恐れをなして、変節し、自分の能力の枠を全体の破壊のなかに投げ込むとしたら、これは愚かしく、まちがっている。
 ゲーテは、劣等な愛国者ではなかった。彼は、ドイツを知り愛していたが、彼にとっては、ドイツに対する喜びより人類に対する喜びのほうがまさっていた。彼は、思想や内的自由や知的良心の国際世界における市民であり、愛国者であった。ドイツの思想家や詩人の最もすぐれた人々が生きてきた精神は、まさにそれなのだ。正義と抑制と礼節と人間愛など、その精神が含んでいるものを思い起こすこと、それを今こそなさねばならないときである。
 人々が理解しあい、認めあい、互いに学びあうようになるために、だれが寄与し努力すべきなのか。兄弟が戦場に立っていることを知り、みずからは机にむかっているわれわれがしないで、だれがしたらいいのか。
 郷国をいつくしみ、未来に絶望することを欲しないわれわれは、わずかなりとも平和を維持し、橋を架け、道を求める任務が与えられている。
 戦争のもとで絶望的に悩んでいる多くの人々に、
 あらゆる文化と人間性が破壊されているように思う人々に、
 訴えたい。
 人間の運命が知られるようになってから、戦争は常にあった。戦争がなくなったと信じることには、何の根拠もなかった。長い平和の習慣がそう思いこませたにすぎない。人間の多数がゲーテ的な精神界にともに生きることができないかぎり戦争はなくならないだろう。
 しかし、戦争の克服は、昔も今も、われわれの最も高貴な目標であり、西洋的キリスト教的文化の帰結である。
 悪疫に対する薬を求める科学者は、新らしい伝染病に襲われても、研究を放棄しないだろう。
 地上の平和と友情は、われわれの最高の理想である。
 人間の文化は、動物的衝動を精神的衝動に高め、恥を知り、空想し、認識することによって成立する。
 人生が生きるに値するということが、あらゆる芸術の究極の内容であり、慰めである。
 愛は憎しみより高く、
 理解は怒りより高く、
 平和は戦争よりけだかい、
 そのことを、今度の不幸な世界戦争こそ、われわれがかつて感じたより深くわれわれの心に焼き付けなければならない。そのほかに、戦争は何の役に立つだろう。>

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 ドイツ国内で、ヘッセは「売国奴」「非国民」と攻撃され、新聞雑誌からボイコットされた。1918年、大戦は祖国ドイツの降伏となった。ヘッセは執筆活動を積極的に行うようになった。1923年、ヘッセはスイス国籍を取り、スイス人となった。
 1933年、ヒトラーが政権を握る。トーマス・マンはドイツを去った。彼はナチスからヘッセと同じように迫害を受けつつあった。ヘッセは、ドイツからの亡命作家を自宅で受け入れた。1939年、第二次世界大戦が勃発する。ヘッセは「好ましからぬ作家」と宣告され、ナチスからいろいろな圧迫を受けるようになる。ヘッセの本の利益はナチスのふところに入った。
 1945年5月、ドイツは敗北し戦争は終わった。裁きや憎しみではなく、愛を! と念じてきたにもかかわらず、あるいはそれゆえに、ヘッセは国家主義者から非国民と攻撃され、進歩主義者からは非行動的であると非難された。
 1946年、ヘッセにゲーテ賞とノーベル賞が贈られた。ゲーテ賞受賞の謝辞でヘッセはこう語った。
 「第一次世界大戦以来、このなぞのような、偉大な、気まぐれなドイツ国民と私との関係は、なんととげとげしく、めんどうな、双方を傷つける、むずかしいものであったことでしょう。」