歴史認識(1)



 日本人の歴史認識の欠如やゆがみが厳しく問われる事態に至っている。歴史教育は具体的な事実を知ることから、学びを始める必要がある。こんな事例がある。「森の不思議」(神山恵三 岩波新書)である。
 神山恵三(1917〜1988)が28歳のとき、中央気象台に勤めていた。1945年敗戦の年の正月だった。アメリカ軍は戦いを止めない日本の、街という街を残らず爆撃し、日本を焦土にする攻撃が展開されていた。そんな時勢に、神山は東シベリアの森林に住む少数民族の環境を自分の眼で見て調べてみたいと思って、実行に移した。
 彼は新進気鋭の気象研究者だった。東シベリアの森林に住む少数民族の環境に興味をもったきっかけは、ポーランドの作家オッセンドフスキー書いた紀行文「アジアの人々」を読んだことにあった。厳しいがくったくない生活、いったいどんな森林に住んでいるのか。
 彼はまず「満州国」北部の森林地帯を調べたいと思って、「満州気象台」の台長に手紙を出すが不許可。それでもあきらめきれず、せめて樺太の森を調べたいと思う。シベリアと気象が似ているからだった。その希望も簡単には認められなかったが、熱意が上司を動かし、彼は樺太、すなわちサハリンに出かける。そのときのことを次のようにつづっている。

 <樺太の状況は決してのんきなものではなかった。宗谷海峡を渡るときは、機雷に対する警戒がすでに敷かれていて、船内にはたくさんの兵隊のほかに、日ソ国境近くで働かされるために朝鮮各地で徴用されてきたのであろうか、朝鮮人労働者も乗船していた。彼らは、激しい寒空に対して少しも防寒的でないみすぼらしい服を着てふるえていた。
 船が大泊に着く少し前に、おそらく軍楽隊の一団であろうか、甲板に整列して吹奏楽を始めた。それは勇壮な軍歌ではなかった。ベートーヴェンの「英雄」である。これには少々驚かされた。海上から吹雪が楽士たちに吹きつけていた。流氷がぐいぐい後ろに流れ去っていった。音楽が力強く響き渡れば渡るほど、なんとなくものさびしい気持ちに引き込まれていった。
 朝鮮人労働者は船倉に入れられていたようだ。風に吹き飛ばされていく「英雄」の調べは、おそらく彼らには届かなかったであろう。>
 大泊に着くと、神山は汽車に乗り込みシスカの測候所に向かう。車中は兵隊たちでいっぱいだった。