歴史認識(2)

   <16日から福島の子ども保養ステイ、キャンプが始まった>


 神山は東京を経って4日目、南樺太北部にあったシスカ(敷香)の測候所に着く。1945年、戦争末期である。
 オホーツク海は冷え冷えと濁り、怒号している。「神よ、何故われわれを創造し給えるやと絶望の声のごとく砂上に打ち砕けている」とチェーホフが『サハリン島』に書いたその海ははるか沖まで凍りついていた。神山は「寒冷気象が生体に与える影響」の調査をしながら、森林に住む少数民族を訪ねようという思いを持ち続けていた。
 当時、樺太は北緯50度線を境にして、南半分を「樺太(カラフト)」として「大日本帝国」、北半分を「サハリン」としてソビエト連邦が領有していた。
 神山は凍りついた川をスキーをはいて、対岸へ渡ることを決行する。そこにポーランドの作家オッセンドフスキーの書いた、森に囲まれて屈託のない生活を送っているアジアの少数民族がいる。「オタスの杜(もり)」と呼ばれたところだ。
 氷の川を渡って眼にした光景はどうだったか、神山は書いている。
 目に入ったものは貧困と荒涼たる風景であった。空想していたトナカイとたわむれる子どもたちの姿はなかった。急ごしらえのような掘っ立て小屋が並び、乾してあるアザラシの皮がわずかに北方民族を象徴しているに過ぎなかった。子どもたちの顔が蒼ざめて見えた。それは敵意のまなざしですらあった。
 <(その子どもたちに)稚内の港で船倉の底へと導きいれられていた朝鮮人労働者の姿やまなざしと同じものを、わたしは感じたのである。来るんではなかった――といういたたまれぬ思いが、わたしの胸を横切った。>
 オッセンドフスキーの書いた、森に囲まれて屈託のない生活を送っている少数民族の姿、そんな雰囲気は全く感じられなかった。
 <そこは、1926年(大正15)に、日本政府が樺太原住民の保護地帯としてつくった一帯で、当時『土人の都、オタスの杜』などと、まるで楽園であるかのように宣伝されていたが、それが全くの虚構であることを、わたしは一瞬のうちに知らされたのである。あちこちから狩り出されて、このオタスの杜という地域に遺棄された人びと、というよりほかはないような見すぼらしく、もの哀しい光景であった。『何かが間違っているのではないか』、わたしはそこにいる人たちに何か悪いことをしているような気持ちに陥ってしまい、家のなかから射る視線を逃れるように部落から離れエゾマツの森林のほうへとスキーで歩き始めた。>
 そのとき神山は背後からじっと自分を見つめる少年に気づいた。10歳くらいの子どもだった。神山は、少年に名前を聞いた。すると、
 「上村良太郎」
という返事が返ってきた。
 <わたしは思わず耳を疑った。何らかのオロッコ族らしい名前を予想していたわたしには、いかにも平均的な日本人の名前であるのが妙に思われた。そのころ、気象台の同僚に朝鮮出身の高辛得という人間がいた。日本人名に改めるようにという圧力に対して、彼は頑としてそれに応じなかった。そのことを知っていたので、上村良太郎というその少年の肩にかかったであろうある民族的な重圧をふと感じたのであった。>
 少年は、オレについて来いと言わんばかりに、森の中に入っていった。どのくらい進んだだろうか。森の樹は太くなった。神山は疲れて腰をおろしてしまう。そこで神山は、持ってきていたおにぎりを二つ取り出し、一つを少年に差し出し、一緒に食べようと誘う。しかし少年は頑として拒否した。何度も「一緒に食べよう」と声を掛け続けると、彼はやっと一つを受け取り、オロッコ人と和人とが並んでおにぎりを食べたのだった。
 その時、森の中から犬の声が聞こえた。少年はすくっと立ち上がり、その声の方を向いた。
 <耳をそばだてている彼の姿、それは、単なる子どもの姿ではなかった。森の奥のしじまから、何かをつかみとろうとする狩猟民族の気迫のようなものを感じさせた。>
 二人は森の中を進んで行った。親近感が生まれた。
 <わたしたち二人に、森からの威圧が共通してかかってきたのであった。それが二人の距離を縮めてくれた。>
 さらに行くと、森の中の一つの空間が現れた。白木の柵で囲まれているそこは、少数民族ロッコの墓だった。アイヌと共通するものをそこに認めた。
 神山はそうして森の民の村から帰ってきた。

 1945年のこの体験談は多くのことを示してくれている。日本のしてきたこと、日本を取り巻く世界の状況、一人の研究者の眼差しから学び取るものがある。こういうものが歴史教育に必要な資料なのだ。
 1945年、連合国は日本の本土攻略を焦点に、2月にヤルタ会談が開催された。ソ連参戦が議論され、4月にソ連は日ソ中立条約の破棄を一方的に通告する。ドイツ降伏後、アメリカは日本に対して無条件降伏を求める声明を次々発表したが日本はそれを受け入れず徹底抗戦を叫び、戦火はおびただしい犠牲を生んだ。8月、原爆投下に続き、ソ連は日本に宣戦布告、9日、ソ連軍は、怒涛のごとく進撃を開始する。満州国樺太南部、朝鮮半島、千島列島に侵攻した。既に日本軍にこれを防ぐ手段は無かった。そして8月15日、敗戦を迎えた。
 現在はロシア連邦北樺太の領有に加え、南樺太をも実効支配している。