理想を非常識としてしまうのか


 自民党の高村副総裁は、集団的自衛権などの一連の政策実現を、世界の常識だと語っている。裏返せば、憲法9条は世界の非常識と言いたいのだろう。世界の理想と希望を、世界の非常識におとしめてしまう政治集団の横暴を国民は許すのだろうか。
 シリアの内戦は泥沼、イラクも内戦必至、ウクライナも深刻、いったん戦火を交えると、双方の憎悪と憤怒はとどまるところ知らず、行くところまで行ってどん底に落ち込んでしまう。

 その悲惨と絶望を、身をもって血肉に刻み込んできた日本なのに、一国の閣僚たちで国の運命を決定付けてしまう事態が進んでいる。
 積極的平和主義とは、何ぞや。

 1945年6月、学生だった中野孝次(ドイツ文学者)は、召集されて兵役についた。

 <わたしは、しゃがみこんでいる。1945年6月。
 (物干し場には)夏用の袴下やシャツやふんどしが、風ひとつなくどんよりと鈍い六月の陽にさらされて垂れている。それはみなわたしが洗ったのだ、
 「一等兵どの、中野二等兵洗濯させていただきます」
と、直立不動の姿勢でたのみこんで、奪うようにしてもらってきて。
あんまりなぐられるのに負けて、ついに屈して。
 そのはげしい恥辱が、いまも重く胸の奥によどんでいる。‥‥
 なぜおれはこんな目に会わなければならないのか、なぜおれの人生は二十歳で断ち切られなければならないのか。いくら思いつめたって、現にいま自分が兵営の奴隷的日常から一歩も動ける希望がまったくない以上、答なぞ出てくるわけがない。
 わたしは思いつめている、考えることなぞ出来ないからそもそも何をどう考えていいのかさえ分からないのだから、ただ自分がこんなところにいるという事実を思いつめている。‥‥
 なぜおれはここにいるのか。なぜオレはこんなところにつながれたまま、おれが始めたわけでもない戦争のために死んでいかなければならないのか、一体これにどんな意味があるのか、一体おれのいのちになんの意味があったのか、‥‥
 「下士官ニ適セズ」。教練をばかにして出なかったわたしは、配属将校として赴任してきた老大佐の復讐をうけた。‥‥
 わたしは思い出す、一九四五年六月、七月、八月、あの鈍重な初年兵がどれほどはげしい憧憬の思いで、さくの外の世界を眺めたかを。
 兵舎は暗緑のヒイラギの植込みと土手で外部と厳重に遮断されていて、まわりには人家もなく、遠くにわらぶきの百姓家が一軒あるだけだった。そこの庭先につるべ井戸があって、ときおりあねさんかぶりのまるっこい人物の水を汲む姿が見えた。そのなんでもない日常的な動作が初年兵の腹にこたえた。その姿が外の世界だった。‥‥
 わたしは柿の若葉のみずみずしい緑を思い出し、それと同時にそこで営まれていたなんでもない日常生活のくまぐまや、そのおだやかな規則正しい空気を思い出し、悔恨に胸がしめつけられた。あそこにこそすべてがあったのだ。あれが、人間の必要とする全部でそれ以外には何もいらなかったのだ、と思われた。
 食べたり、水を汲んだり、昼寝をしたり、その日常的な営みの一つ一つが、まるで失われた宝石のように貴重なものにいまは思い出された。>
               (「ブリューゲルへの旅」中野孝次