「弱者」の価値、強味、社会の中での意味<2>


 ヒロシとサトシには、通い合う友情があった。
 ヒロシは生まれるときの障がいで、脳性マヒになり、運動障がい、知能障がい、言語障がいをもっていた。一人で歩けるようになったのは3歳になってからで、体の成長は遅れ、中学生になってからもクラスでいちばん小さかった。
 サトシの両親は沖縄出身で大阪に出てきた。父親の話では、サトシが小学生のときに家が火災になり、そのときの恐怖が大きな傷を心身にのこした。それが原因でしばしば大発作が起きるようになり、知能が遅れた。
 クラスにはもう一人、障がいはなかったが、学力が非常に遅れたクニヒロがいた。彼も知能的にも体格・体力的にも成長が遅れていた。二人はクニヒロとも仲がよかった。
 ぼくは、彼らを3年間受け持った。ぼくのクラスでは、生徒に生活ノートをつけさせていた。日記である。時々提出してくるそれを読んでぼくは毎回返事をそこに書きこんだ。
 サトシは生活ノートに2、3行、ヒロシは一日に1行、書いてくる。
 サトシは学校から帰ると、新聞の夕刊を配達するアルバイトをしていた。夕刊を配り終えると、家の近所の子らと団地のなかで草野球をする。それが日課だった。サトシは2年生の後半から生活ノートを意欲的に書くようになった。書く内容は野球のことばかり。野球に没頭するようになればなるほど生活ノートも充実していった。
 「きょうは、ぼくがホームランうって、3たい1で、かちました。」
サトシのお父さんは日曜日に、サトシを含む子どもたちの草野球を指導した。チームをつくって、対外試合もするようになった。
 サトシはやがて一日1ページ書くようになった。量が増えるにしたがって、漢字の使用が増えていった。3年生の終わりには、彼の生活ノートは9冊目になった。ヒロシは1時間かけて3、4行書けるようになり、3年間でノートは1冊埋まった。
 ヒロシには運動障がいがあるから、歩行に時間がかかる。一方のサトシは運動能力が発達している。サトシは、ヒロシが体を動かして何かするとき、自然にそのカバーをするようになった。
 ある日、サトシがこんな文章を書いてきた。

 「きょうは、2月1日、さっそく練習をやります。ベーコンとごはんと入れて、たまごを入れてたべました。そのつぎは、なっとうで食べて、それでファイトをもやして、がんばってきたいと思います。2月12日は、大会で、ヒロシ君のたんじょうびなので、大会でもしか ゆうしょうしたら、ぜったいヒロシ君にノートをあげて、ホームランボールをあげて、ヒロシ君のために一発ホームランをうって、がんばります。」

 「ヒロシ君のために一発ホームランをうちます」、このサトシの気持ち、ヒロシは野球を一緒にしているわけではない。しかしサトシは野球をしながらもヒロシを思っている。この友情、ぼくは、この日のサトシのノートを読んで、泣けてきた。
 遠足で、曽爾高原の山に登ることになった。ヒロシは、案の定「ぼくもみんなと登る」と言い出した。
 よし、チャレンジやってみろ、ぼくは彼らの団結にまかせた。登山は倶留尊山、標高1038メートル、標高700mの高原から登りはじめる。
3人の結束は固かった。さらにクラスのみんなが応援した。ぼくはヒロシの体なら、途中の峠までで精一杯だろうと思っていたのだが、とうとうみんなはヒロシを頂上まで登らせてしまった。ゆっくりゆっくりヒロシに歩みを合わせながら。
 その登山をクニヒロが生活ノートに書いてきた。

    「登山のとき、ヒロシが、
    『あの山 登られへん』といったので、
    『ぼくがてつだったろう』と言った。
    ほんとうは峠までやったけど、
    ここまできたから、もっと上まで登ろうと、
    また登っていった。
    わたの君、たむら君、さわだ君もてつだった。
    そしてなんとか登れた。
    あのときは よかったあ。
    やったー、ヒロシ!」

 彼らは今どうしているだろう。当時ヒロシの家は食料品店をしていたからそれを手伝っていると聞いたが、何年かしてお父さんが亡くなり、店は閉店になったとか聞いた。サトシの方は、初めはネジをつくる町工場で働いていたが、零細企業がつぎつぎつぶれる波があった。今はどうしているだろうか。今も元気に働いているだろうか。
 薄情な元担任は今になって遠くの彼らへ思いを馳せ、「優しさを育まない教育は教育ではない」という結論を導いている。