4月29日の中日新聞

 あや子さんが茶封筒に入れた新聞を届けてくれた。中を見ると、この辺りでは購読者の少ない中日新聞だった。ぼくに見せたいと、あや子さんは自転車に乗って野の道をやってきた。いったいどんな記事を? と開いてみた。1面トップの記事が眼に飛び込んできた。「学徒兵もう一通の遺書」と書かれた4段見出し、横見出しは「『わだつみのこえ』獄中で真情」とある。写真は学生時代の木村久夫だ。
 4月29日の中日新聞だった。トップ記事がこのニュースであったことに驚く。
 戦没学徒の遺書や遺稿を集めた書、「きけ わだつみのこえ」に掲載されていた木村久夫の遺書、知られていない遺書がもう一通あったのだ。
 中日新聞の調べで分かったその発見、「もう一通の遺書」は原稿用紙11枚に書かれていて、遺族が保管していた。
 新聞は1面トップで6段にわたって、二つの遺書のこと、そのいきさつを書いている。さらに2面と3面に、木村久夫の詳しい記事が載せられ、そして発見されたもう一通の遺書と関連記事が7面全段、広告なしで伝えられている。
 木村久夫は大阪吹田出身で、旧制高知高校を卒業、1942年京都帝大に入学してその秋に召集された。一月後結核の疑いで入院、退院後、43年9月にインド洋のカーニコバル島守備隊に配属された。
 ところが終戦間際にスパイ事件が起こり、日本軍は「スパイ組織」80人以上を処刑した。そして敗戦。
 戦後、日本兵は収容所に入れられ、木村は処刑に関与していなかったが、スパイ容疑者を棒で打つなどして死に至らしめたとしてB級戦犯に問われ、シンガポール戦犯裁判で死刑を言い渡された。
 死刑執行は46年5月23日だった。

 発見された遺書は、次のように始まる。
 「いまだ三十歳に満たざる若き生命を持って老いたる父母に遺書をささげるの不孝をお詫びする。いよいよ私の刑が執行されることになった。絞首による死刑である。戦争が終了し戦火に死ななかった生命を今ここにおいて失っていくことは惜しみても余りあることであるが、これも世界歴史の転換のもと国家のために死んでいくのである。」
 こうして木村は父母、妹への思いをつづり、子どものころの故郷の思い出、旧制高知高校の追憶を書いた。
 短歌九首も加えられている。そのなかの一首。

    悲しみも涙も怒りも尽き果てし此のわびしさを持ちて死なまし

 戦犯として処刑されていくことに対してこんなことも書いた。

 「私に戦争犯罪者なる汚名が図らずも下されたことがやがては孝子(妹)の縁談にまた家の将来に何かの支障を与えないかということが心配であるが、カーニコバルに終戦まで駐屯していた人ならば、誰もが皆私の身の公明正大を証明してくれることを信ずる。」

 戦犯に値する者たちが生き延び、そうでないものが処刑された。
 「きけ わだつみのこえ」が戦後出版されたとき、木村の遺書は、戦地で彼が愛読した「哲学通論」への書き込みをもとにしていたが、その書き込みの中にあった軍に対する木村の批判は、「きけ わだつみのこえ」に収められた木村の遺書では削除されていた。
 削除されていた「哲学通論」の書き込みのなかには、こんな文があった。

 「日本の軍人、ことに陸軍の軍人は、私の予測していた通り、やはり国を滅ぼしたやつであり、すべての虚飾を取り去れば、我欲そのもののほかは何ものでもなかった。」

 そして発見されたもう一つの遺書に次のような文章がある。

 「すべてが失われた。私はただ新しい青年が、私たちに代わって、自由な社会において、自由な進歩を遂げられんことを地下より祈るを楽しみとしよう。マルキシズムもよし、自由主義もよし、いかなるものも良し、すべてがその根本理論において究明され解決される日が来るであろう。真の日本の発展はそこから始まる。すべての物語が私の死後より始まるのは、誠に悲しい。」 

 4月29日の中日新聞、4ページに渡り、重要紙面を使ってこの発見を掲載したことにぼくは敬意を表する。新聞を届けてくれたあや子さん、ありがとう。あや子さんは、どんな思いでこの記事を読み、どんな思いで、ぼくのところに持ってきてくれたのだろう。