特攻隊員・上原良司の思想


臼井吉見文学館


1945(昭和20)年5月11日早朝、
上原良司は、鹿児島県知覧より特別攻撃隊員として出撃し、
沖縄嘉手納湾にてアメリカ機動部隊に突入して戦死した。
学徒出陣の22歳だった。
上原の手記は、「きけ わだつみのこえ  日本戦没学生の手記」に一部掲載されている。
上原良司は安曇野穂高の出身だった。


上原良司の手記は、戦没学徒のなかでも特異なものだった。
良司の思想の特異性はその手記の次の文を読めば分かる。


「私は明確にいえば、自由主義に憧れていました。
日本が真に永久に続くためには自由主義が必要であると思ったからです。
これは馬鹿なことに聞えるかもしれません。
それは現在日本が全体主義的な気分に包まれているからです。
しかし、真に大きな眼を開き、人間の本性を考えたとき、自由主義こそ合理的になる主義だと思います。
‥‥人間の本性に合った自然な主義を持った国の勝戦(かちいくさ)は、火を見るよりも明らかであると思います。
‥‥私の理想はむなしくやぶれました。この上はただ日本の自由、独立のために、喜んで命を捧げます。」
                        (遺書より)


「自由の勝利は明白なことだと思います。
人間の本性たる自由を滅ぼすことは絶対にできなく、たとえそれが抑えられているごとく見えても、
底においては常に闘いつつ最後には必ず勝つということは、かのイタリアのクローチェもいっているごとく、
真理であると思います。
権力主義の国家は、一時的に隆盛であろうとも、必ずや最後には敗れることは明白な事実です。
我々はその真理を、今次世界大戦の枢軸国家において見ることができると思います。
ファシズムのイタリアは如何、ナチズムのドイツもまたすでに敗れ、今の権力主義国家は土台石の壊れた建築物のごとく、次から次へと滅亡しつつあります。
真理の普遍さは今、現実によって証明されつつ、過去において歴史が示したごとく未来永久に自由の偉大さを証明してゆくと思われます。」      (所感より)


「日本軍隊においては、人間の本性たる自由を抑え‥‥、自由性をある程度抑えることができると、修養ができた、軍人精神が入ったと思い、誇らしく思う。
およそこれほど愚かしいものはない。
(人間の本性たる)自由性は如何にしても抑えることはできぬ。
抑えたと自分で思うても、軍人精神が入ったと思うても、それは単に表面のみのことである。
心の底にはさらに強烈な自由が流れていることは疑いない。
いわゆる軍人精神の入ったと称する愚者が、我々に対しても自由の滅却を強要し‥‥、
しかしながら激しい肉体的苦痛の鞭の下に頼っても、常に自由は戦い、そして常に勝利者である。
我々は一部の愚者が我々の自由を奪おうとして、軍人精神という矛盾の題目を唱えるたびに、何ものにも属せぬ自由の偉大さをあらためて感ずるのみである。
偉大なるは自由、汝は永久不滅にて、人間の本姓人類の希望である。」
                         (メモ・ノートより)



軍国主義の時代は、社会主義共産主義無政府主義のみならず、自由主義者もまた「非国民」として弾圧の対象であった。
そのような状況の中で、特攻隊員の上原良司は、このようなあからさまな意思表示の手記を残した。
この良司の思想と表明態度はどうして生まれたか。
明治の自由民権運動家・松本求策ほか安曇野の先人を研究してきた安曇野穂高出身の中島博昭は、
その著「ああ 祖国よ恋人よ <きけ わだつみのこえ 上原良司>」のなかで、
上原良司の思想のルーツを考察している。


「いったいこのような上原の先進的な思想はどのように形成されたのか。」
中島はまず、良司の祖父、上原良三郎の影響を上げている。
良三郎は、明治10年代の自由民権運動に強く影響を受け、島内小学校の校長時代(明治30年代)には、相馬愛蔵と井口喜源治らとともに、農村社会の生活の合理化、革新をめざす活動に参加している。
良三郎は、内村鑑三に私淑したキリスト者・望月直弥を教師として招き、望月が日露戦争を批判して反戦的言動を強めたがためにロシアのスパイではないかとうわさを立てられても、望月を守り、その教育には口を挟まなかった。
相馬愛蔵は研成義塾の創立を助け、井口喜源治はその教育を実践し、キリスト教無教会派の内村鑑三自由民権運動の木下尚江はそれを支援した。
自由と反戦の思想はこの人脈に胚胎する。
中島は次に、父・寅太朗からの感化を上げている。
良三郎、望月直弥の感化を受けた寅太朗は、「うそを言うな、自分の思ったこと、言いたいことは、どんなことでも、誰の前でも隠さずに言うこと」
と良司をしつけた。
第三の要素として、中島は良司の家庭条件を上げている。
良司の兄弟は、スキー、登山を楽しみ、写真撮影に熱中し、テニスをし、クラシック音楽を聴き、楽器を奏で、ドイツリードを歌った。
当時としては珍しい個性的で自由な家庭だった。
思想形成の第四に、進学した松本中学校と慶応義塾自由主義的な自治の校風を上げている。
そして、第五番目、イタリアの歴史哲学者クローチェとの出会い。


<クローチェの言葉>
「自由はそれらの反動や権威主義支配の中にも働きつづけ、ついにそれらをして力尽くるにいたらしめて、ふたたび、今度は前よりもかしこくつよく再現してくるのである。
自由は形式や状態ではなく、生きる力の根源であるから、これを滅ぼすことはできないのである。」
「自由においてのみ人間社会が繁栄し、みのりゆたかに結実するのであり、自由こそ地上における人生の唯一の理由であり、自由なくしては人生は生きるねうちを失う‥‥。自由とは人間性のことである。」

上原良司は、クローチェの思想に出会い、非人間的軍隊生活のなかでの思想闘争によって、熟成させていったと、
中島博昭は考える。
その思想は、揺れながら変化し、高まっていったと。


小林多喜二が拷問によって殺害されていった時代、このような人物がいたのだ。
上原良司の思想のルーツ、その系譜に、安曇野の先人、相馬愛蔵と井口喜源治、そこにつらなる内村鑑三がいた。