復興とはどうすることだろう

 小径、小道について書いてきた。もう少し考えてみよう。
大阪では路地のことを「ろーじ」と言っていた。人家の間の狭い道、裏通りに出る通路、サンマを焼く煙が流れてきたりして、そこを通り抜ける人は住人の暮らしを感じる。「横丁(横町)」ともいう。法善寺横町は短い通路だが、途中に全身を苔におおわれた水掛不動があって、お参りに来る人が絶えない。石畳もしんみりした道だった。天王寺区下寺町から上町台地夕陽丘に上がる石段の口縄坂も味わいがあった。
 奈良公園の猿沢の池から南に、奈良町と呼ばれる古い街並みがある。そこへは、「もちいどの通り」から歩いていく。古本屋がある。寺がある。「さるぼぼ」が軒にぶらさがっている。どこかから琴の音が聞こえてくる。車のまだない時代につくられた街の道は狭い。この街も好きなところだった。
 林の小径では、春日大社から新薬師寺に抜ける、馬酔木(あしび)の森の「ささやきの小道」がいい。恋人たちがささやきあって通る道、そこには鹿道もあって「馬酔木の迷路」とも言われる。
 この林のはずれに、飛火野の隠れた芝地がある。日曜日にクラスの子どもたちとハイキングに来て、かんけり遊びをしたことがあった。一日そこで遊んで大阪に帰った。
 「こんなに楽しかったことは初めて、と娘がいいました」
と翌日感激した母親からの報告があった。
 新薬師寺から白毫寺(びゃくごうじ)への小道は寂れた土塀が美しい。さらに南へ足を伸ばせば、「山之辺の道」があり、桜井から明日香へと続く。万葉歌人をしのぶ、野のあぜ道、丘の道、村の道である。寺、神社、古墳がある。柿が実る秋はことにいい。
 新薬師寺から東へ登る道は、江戸時代から使われてきた石畳の谷の小道である。石仏も多い、旧柳生街道。峠を越えて大柳生へ下っていく。
中学校の遠足では、小径をたどる独自コースを選定した。表道より裏道がいい。人がいない、普段の庶民の暮らしが残る道がいい。それを下見で発見しておく。東大寺へ行けば、寺の裏側に回って静かな小道をコースにとる。宇治へ行けば、万福寺を横に見て奥の里山に入った。京都嵐山では、野々宮の竹やぶ道を通って嵯峨野をめぐる。葛城の道では、野小屋などを関所にして、自由にコースを探しながら歩く探索ハイクをした。ゴールは当麻寺
 俗化のひどい斑鳩の里は、法隆寺から法起寺法輪寺の三塔をポイントにして、人の入らない細道を探し出した。
 しかし、次第に連綿と続くすばらしい道が見つけにくくなった。
 信州では木曽路を1970年からよく歩いた。妻籠には農家民宿の定宿があった。宿場から宿場へ脇道を探して歩き、表道は早朝や夕方に歩いた。薮原から北へ、ヨーロッパの若者が国道19号線を歩いていた。車が次々と横を通り過ぎていく。彼らは歩く道を発見できなかった。
どこまでもつづく美しい小径、文化を運んだ道は細切れになり、どこかへ行ってしまった。

 ヨーロッパでは、戦災のあと人びとは、建物の破片を拾い集めて、以前の建物を復元した。そして長い歴史的景観を取り戻した。中世の横道、路地が生き残った。
 日本は、これからどんな歴史を創ろうとするか。
 震災3年目、復興が遅れている、復興は急ぎすぎている、両論が出ている。復興はどのように進めていくか。何十年、何百年とかけてつくられてきた人間の暮らしの場が根こそぎ破壊され、そこにつくられていく町や村はどんなものになるだろう。