子どもたちの育つ環境を奪ってきた文明


    福寿草の花が咲いた。

 北西先生は、戦時中は鬼軍曹のように子どもたちから恐れられていた。町の各分団から隊列を組んで集団登校してくる生徒たちを北西先生は校門前の一段高いところに立って見ていた。態度が悪いと思う生徒がいると、指をさす。それを見た分団長の上級生は、すぐさまその生徒のところに走りよってぶん殴った。北西先生の姿を見ただけで生徒たちはびりびりと緊張していた。
 戦争が終わって四年後、小学校6年生のとき、北西先生はぼくのクラスの担任になった。先生はやはり恐かったが、戦後の社会風俗の変化をおもしろおかしく話す授業に笑い声が絶えなかった。町のあちこちの民家の中に、たちまち小さな社交ダンス場がつくられ、そこで男女がくっついて踊っている光景を、先生は「ダンスバッテン、ダンスバッテン」と茶化しながら、あまりに激烈な民衆の変化にあきれている気持ちを漫談のように話す。
 ある日、北西先生は作文の課題に、「自分の夢」というのを出した。何を書こうか考えた末、配られたわら半紙に、家から学校までの道について、日ごろ思っていることを書いた。ぼくの家は町の南のはずれにあり、南北に伸びる町を貫く旧街道の真ん中に学校はある。毎日の登校に、子どもの足で30分かかった道は狭く、うねうねと曲がりくねり、道に張り出す家々の軒のひさしと雑多な建物が調和もなく建ち並んでいるのが、ぼくには美しいと思えないでいた。もっと道がすっきりときれいにできないかな、その思いを作文に書いた。
 すると先生は、作文に赤ペンで返事を書いて返してくれた。その赤い文字の文は、なかなかの達筆で、こんな意味のことが書かれていた。
 「道をまっすぐに整えるには軒切りをしなければならない。民衆の意中を汲んで、それは行なわれなければならない。」
 要するに、街づくりは住民の意見をよく聞いて行なうべきだ、という返事だった。ぼくはこの返事を読んで、なるほどなんと自分は勝手なことを書いたのだろう、北西先生は真正面から返事をくれたと思い、先生の変化を子どもなりに感じて、先生が好きになった。日本は、模索し創っていく民主主義の試行のなかにあった。
 中学三年生のころ、その道路の一部に一大変化が起こった。
 街道沿いに「観音さん」と呼ばれていた西国札所の大きな寺があり、ある日、とつぜん寺の境内にあるイチョウの大木が数本切り倒された。その木は、寺の石垣の内側に天に向かってそびえたち、秋になると道路にまで伸ばしていた枝から色づいた黄葉をはらはらと落とした。道路は黄葉で埋まり、その上を歩いていくと季節を感じる心はしーんと澄みきり、心の楽器の弦の音が聞こえるようだった。それが伐採された。なぜだ、なぜ? 子ども心に、これは理解できないことだと思う。
 続いて、大きな寺の四面の一辺、街道に面する部分の美しい石垣が300メートルほど取り壊された。そして境内の内側へ15メートルほど造成され、そこに商店が並ぶように建てられた。商店街の出現だった。国宝の千手観音がまつられていた名刹は、境内を切り売りしたのだ。寺が売ったのか、地元の経済発展の要請がそうさせたのか、本当のところは分からない。
 寺の近くに住んでいた級友の、小学校のころはガキ大将だった彰一に聞いた。
「どうしてこんなことをしたんや。」
「発展するために、商店がいるんや。寺では発展せんやろ。」
「石垣をつぶして、大木を切り倒して、なんでや。だれが決めたんや。」
「このままでは、寺が商売の邪魔になるんや。」
 彰一の反論には驚いてしまった。そういう論理を農家の彼はどこから仕入れてきたのかと思った。親たち、地区の人たちの話を彼は横で聞いていたのだろう。
 変化は急激だった。田んぼの中を流れ、夏になるとホタルが飛んだ小川の流域は新興住宅地となり、小川は下水路になった。古墳のあったカルタ池、神社に接したブクンダ池は埋められて保育園や駐車場になり、実家前にあった釣りのできた大きな三つの池も埋められて、小学校、市の施設、住宅地に変わった。
 夏になると泳ぎに行く大きな清流があった。高さ3メートルほどの堰堤があり、川の水がその上から瀑布のように放物線を描いて落ちる。滝の内側に入ると、そこは水の当たらない空間になり、子どもらはそこで遊んだ。水にもぐると、小石を両手に一つずつ持って、水の中でカチカチと打ち合わせる。透き通った水の中で、友だちの姿を見ながら石を打つと、音はよく伝わり、それで暗号を送りあった。無数の魚が泳いでいた。板を四角に貼り合わせ、開いた一方にガラスをはめ込んだ水中眼鏡を作り、それで水の中を覗き込みながら、ヤスで魚を突いた。その川も、子どもたちの泳げる川ではなくなった。
 いったいどうしてこうなっていったのか、子どもたちは消えてしまった自然に疑問を抱くこともない。アメリカシロヒトリが桜の葉を食いつぶして樹を丸裸にしていくように、気がついたらそこはそうなっていた。滅び去ったものに思いは行かず、今の状態を受け入れて、人も子どもも生きている。
 住民も行政も時代の勢いを制御することをしないままここに至った。


 今、ぼくは安曇野で、何かを始めなければならないと思っている。
 蛇行して流れて、多くの魚や水中生物を育んだ小川が、直線の農業用水路だけになってしまい、歩く人のための道が皆無になったところに、魚の泳ぐ小川、田野の中の雑木林を、暮らしの近くに取りもどす。
 「子どもの育つ環境をとりもどす。心の育つ社会をつくる」。
 これをメインにする政治が生まれたならば、そこから地域はすべて変わりだすのだ。ハコモノや形、自分の業績にとらわれた今の政治は、住民の意見のみならず、子どもの意見を聞くという発想など微塵も生まない。
 地域の学校の児童生徒たちに、どんな故郷をつくりたいか、授業のなかで考え、みんなで話し合い、それを発表しあう場を作る、震災の被災地でもそのほかでも、そこにこそ教育が存在する。テストの点数や知識のみを偏重する教育から未来を生み出す力は育つか。
 行政に任せておけ、権限を持っている人たちにやらせておけ。
 声なき声なんか、行政には届かない、黙っているしかない。
 そうして今の事態に至った。そしてまだそれを続けようとしている。3.11の声を聞こうとしないものたちが君臨している。