ヒュッテ・コロボックル  3

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 手塚さんは亡くなり、今は息子さんが跡を継いでいるのだろう。息子さんの名は確か貴峰(たかね)だった。随想のなかに、一歳の貴峰ちゃんが夜中に急病になり、背中におんぶして雪の降る山道を下って病院に行った話が出ていた。あれから何年になるんだろう。今、コーヒーを淹れてくれたのが息子さんだとすれば、もう50台の年齢になるはず。風貌からすればその感じだ。

 高齢者のトレッカーは草原の道をとおって、見えなくなった。セミが鳴いている。

 僕はさっき、なんだこのトイレは、と思ったバイオマストイレのたたずまいだが、そうだ、手塚さんは、トイレのことを書いていた。「高原の随想  野性への回帰」(女子パウロ会)だった。トイレ物語だ。

 霧ヶ峰には、公衆トイレというものがそのころどこにもなかった。だから登山者は草原のどこかで隠れるように用を足した。だがそれは人目にもつく。女性はとても困った。かくして山小屋のトイレを訪れる人が増えた。コロボックルにトイレを借りに来る人が増え、狭い土間に列ができることもあった。早朝に「トイレを」と小屋の戸をたたく人もいる。公衆トイレが必要だ、手塚さんはこの切実な要求を持って地元の行政に訴えた。しかし市の返答は「予算がない」の一点張りだった。

 手塚さんは、公衆トイレを自分で造るしかないと決め、実行に移す。霧ヶ峰の麓から、一人で何回も往復して木材を担ぎ上げた。小屋の近くに穴を掘って便槽にし、掘立式のトイレをつくった。ところがある夜、烈風が吹きすさび、トイレは吹き飛ばされた。手塚さんはまた市に掛け合った。昭和36年、市は30万円の予算で公衆トイレを建てることを決めてくれた。地元の業者と手塚さんは、公衆トイレを建設した。

 すると、このトイレに一度に数十人、百人とハイカーや登山者が押し寄せる状況が出てきた。そのトイレ掃除が、手塚さんの手に負えなくなった。さらに朝まだ眠っているときに、山小屋へ「手洗いの水をくれ」と頼みに来る人がいる。「水道はないのか」と言う人もいた。

 そこへもってきて、ビーナスラインが開通した。蓼科から美ヶ原までの山岳観光道路の開通は、激しい賛否の世論を巻き起こしてきた。観光バスが入ってきて、ヒュッテのすぐ近くにできた駐車場に止まる。団体客はトイレに並んだ。トイレは荒れた。旅の恥はかきすて、節操のなさに手塚さんはあきれはてた。静かな霧ヶ峰の深々とした情趣は次第に変質していった。手塚さんは、トイレをつくったことを後悔した。

 そのトイレにまたも風が襲う。秋の一夜、突風が吹きつのり、トイレの屋根が吹き飛ばされたのだ。強風に耐えることができない設計だった。かくして公衆トイレはまたも取り壊された。

 トイレなんかない方がいい、と思ったものの、トイレのない観光地は成り立たない。手塚さんは葛藤した。その後どうなったか、手塚さんはそのあとを別の著作に書いているのかどうか知らないが、僕が違和感を抱いたむき出しのバイオマストイレは、何年か前に建てられ、ヒュッテの目と鼻の先で自然に調和せず不協和音を奏でている。このトイレ建設は手塚さんがまだこのヒュッテにおられた時だろうか。仕組みとしてはバイオマストイレが理想的だ。ただ環境と調和するような植樹がほしい。

 テラスに座ってコーヒーを飲みながら、コロボックルの昔を思い出す。手塚さんはここに独りの青年を受け入れて暮らしたこともあった。その文章に僕は深い感銘を受けた。