[山] 南チロル、山の礼拝堂

2004年に79歳で亡くなった、作家でありドイツ文学者であった中野孝次が、
「チロルの墓碑銘」という小文を書いていて、それを読んだとき、いろいろ考えることがあった。
南チロル(オーストリアとイタリアが接する辺り)を愛した若き日の中野は、青空に屹立する岩峰を眺めながら、
深いタンネ(樅)の森と明るく広がるアルムの牧草地をよく歩き回った。
ある日、中野は、シュレルン・ボーデンの山小屋の裏手に、小さな礼拝堂のあるのを発見した。
薄暗い内部をのぞくと、厚い銅板に名前のようなものが刻んであり、ローソクの火がゆらいでいた。
いったいこの名前は何だろう。
初めは大戦の戦死者ではないかと思ったが、実はそれは過去30年間にシュレルン・ボーデンの岩山で死んだ山男たちの名前と死亡した日付だった。
中野は胸をしめつけられ、思わず碑の前で額づく。
そのとき中野は、心に宿った思いを次のように書いている。


「深い山の自然の中に置かれたシュレルンのそれには、安らぎのようなものがあった。
記された名はいずれも二十代か三十代初めの若者だったことを示している。
が、三十数名のそれらの名には、ふしぎと憩うべき場所に眠っているという感じがあって、それが痛ましいながらに私を安心させるらしい。」


読んでいて、ぼくの心にふと湧いた思いがあった。
日本の場合、山で死んだ登山家たちの名を記し、彼らを弔う礼拝堂のようなものはついぞ見たことがない。
山仲間が、死んだ仲間を偲んで碑を建てたり、ケルンを積んだりすることはあった。
ぼくも、学生時代に山に逝った友・金沢の小さな碑を、山岳部の仲間と力を合わせて山頂の岩場にはめ込んだ。
後輩3人の碑のプレートは鹿島鑓岳の稜線にケルンを積んではめこんだが、その後風雪に倒壊し、いまは麓の河原にある大岩にはめこんである。
日本の山を歩いていて、ひっそりと目立たぬところに、山で遭難死した登山者の碑を見つけることがときどきあるが、
それらは家族や友人、山仲間の建てたもので、長い月日とともに碑を訪れる人はなくなり、いつしか忘れ去られていく。
いつのころからか国立公園に勝手に碑を作ることは禁じられ、碑を建てることは、今ではもう行なわれなくなった。


礼拝堂で中野は胸をしめつけられ、思わず碑の前で額づいた。
この30数人は中野の全く知らない人たちだろう。
では、この感情はどこから湧いてきたものだろうか。
山を愛し、山に情熱をほとばしらせ、
山に生き,山と一体化し、
山に逝った人たち、
彼らの魂を感じる人たちが、祈りの礼拝堂を造った。
山と人と、歴史と文化と、
そしてこの天地の創造主、神。
それらすべて、礼拝堂の中野を包み込んだものへの敬虔の念が、
中野の胸をしめつけ、無意識に碑の前で額づくことをさせたのだろう。
礼拝堂には、ローソクが燃えていた。
おそらく今も燃えているだろう。
大自然への畏敬の念を抱き、山を愛して亡くなっていった魂の慰霊を続ける、
その心は今も南チロルで続いていることだろう。


近代アルピニズムが起こってから、日本の山で亡くなった人の数はいったいどれくらいだろうか。
1923年、厳冬期の立山松尾峠で、板倉勝宣吹雪で遭難死、
1928年、前穂高岳の北尾根で大島亮吉墜落死、
1936年、厳冬期の槍ヶ岳北鎌尾根で亡くなった超人・加藤文太郎
1949年、冬の槍ヶ岳で遭難死した松濤明、
日本山岳史に残る数々の遭難の歴史。
それら歴史を作ってきた人たちを追慕し、慰霊する礼拝堂はひとつもない。
もしそれが日本アルプスのどこかにつくられたら、
それは単なる記念館にとどまることはないだろう。
それは山に生きた人たちの精神の軌跡をたどるメモリアムになり、
自然の壮大さ、美しさへの畏敬の念と祈りが、そこにこもることになるだろう。