手塚治虫の言葉と人間の育つ環境

 安曇野を歩いていたら、ほのかに匂ってくる香りがあった。思わず深呼吸をしたくなる甘い香り、金木犀だ。どこから来るのだろう。辺りを見回したが、樹が見つけられない。
 この香りをかぐと、あの日がよみがえる。
 11年前の秋、武漢大学の教室で授業をしていたら、この香が窓からただよってきた。ぼくは学生たちに、これは何の香りですかとたずねた。するとそれが日本で言う金木犀だった。大学の構内には、森があり、山があり、いくつもの大規模な庭園がある。うっそうと木々が生い茂り、鳥が一年中さえずっている。大庭園のひとつに桂園という金木犀の庭園があり、香りは教室まで入ってくるのだった。金木犀の花は、中国では桂花と呼ばれていた。
 授業が終わると、ぼくは大学構内にある山の麓のゲストハウスまで歩いて帰る。金木犀の花の香りを胸に吸いこみながら、30分ほどのウォーキングだった。

 安曇野で出会った金木犀の香り、この地では木犀の花がきわめて少ない。安曇野の冬の寒さは、亜熱帯、温帯の照葉樹を痛めつけ、なかなか元気に育たない。
 秋のこの季節、ウォーキングしていて偶然に出会った香りが珍しい。

 手塚治虫が元気に活躍していたころ、匂い、香りについてこんなことを書いていた。

 <日本人は匂いに敏感で鼻がよくきくのだそうです。日本人の自然環境に対する情感、感触には、匂いがかなり含まれているのではないでしょうか。
 花々はもちろんのこと、ぼくなどは蝶の匂いというのが、ものすごく好きなのです。かいだこと、ありますか。なんと表現したらいいのでしょうか、なんとも言えない生き物のいい匂いなのです。
カブトムシの匂い、あれはナラとかクヌギの樹液の匂いがするのです。そしてトンボの匂い、こちらは秋の草花の匂いです。
 鼻のよかった日本人は、鼻が荒くなってしまったんでしょう。横丁のラーメンの匂いはかぎつけても、四季の自然の移ろいのなかの微妙な匂いは、もうわからなくなってしまったようです。
 以前、中曽根さんがバードウォッチングをやるというので、首相官邸にはどんな鳥が来るのかときいたら、カラスとスズメとハトだと言うのです。
 もっと虫や生き物の名前を覚えてもらって、それがどこにいて、何年ぐらい生きて何を食べているかぐらいは知ってもらえば、この公園には何の樹を植えて、こんな鳥が来るようにしてやろうなんて、行政サイドで緑豊かな、生き物と人間のための都市づくりをしてもらえるんじゃないでしょうか。
 中曽根氏がこの程度のこと(カラス、ハト、スズメのバードウォッチング)でさえ、夢として語るなんて、まったく悲しいことではありませんか。不可能な夢物語ではないはずです。
 ‥‥(アメリカへ行ったとき)小さな田舎の駅で、一方の側は住宅街で並木道も整然としていて美しいのに、反対側は雑木林のままでした。
 「どうして、あっち側は家を建てないのか」とたずねたら、
 「家を建てるには雑木林の樹を伐らなくちゃならない。‥‥まあ、手塚さん、ちょっと待っててごらんなさい」
と言うので、ぼーっと電車を待っていた。そのうち月が出て、それが雑木林の上にのぼったんです。
 「ほら、どうだい。あの月をここから眺めるとじつにすばらしいだろう。それで、この雑木林は絶対伐らないことに、市で決めたんだ。だから、この雑木林には家は建たないし、あのすばらしい月を子孫も見ることができるんだよ」
 これを聞いてぼくは、なんて日本と違うんだろうと、心を打たれると同時に、非常にうらやましく思った。
 日本は、こんな狭い国土にゴルフ場はごまんとできるけど、二十や三十、ゴルフ場をなくして、月を見る原っぱをつくってもいいんじゃないでしょうか。
 虫のほうから自然に寄ってくるような空間、ここの水はきれいだぞ、と言ってホタルが飛んでくるように。
 ぼくたちが子どものころに駆け回った野山、林を吹き渡る風の音、小川に群れていた魚たち、どこにもいた昆虫、そして無造作なほど咲き誇っていた草花――、いまは失われてしまったそれらは、決して取り戻せないわけではないのです。
 その気にさえなれば、いまならまだ間に合うのです。たとえ、すべては戻ってこないとしても、少なくとも今宵の月、明日の青空だけは、もう失いたくありません。>(「21世紀の君たちへ ガラスの地球を救え」知恵の森文庫 光文社 1996年)

 二十年前に、手塚治虫はこんなことを主張していた。今その主張はもっと強調しなければならないほどになっている。
 ぼくの住む地元の中学校には昔から育ってきた大きな樹木があり、学校の雰囲気はたいへんよい。しかし、新しく建て替えられた小学校と保育園には、まったくと言ってよいほど大きな樹がない。提案をしてもナシのつぶて、行政にも学校の管理職および教員にも、学校林の教育的意義が認識されていないのではないかと思う。
 安曇野にいて子どもたちは、自然の香りを知らず。
 静岡の県知事は、全国学力テストで成績上位だった86校の校長名を公表したという。初めは下位の学校の校長名を公表するといっていたが方針転換をした。どちらをしても同じこと。成績下位校を明らかにして、校長から教員へ叱咤激励させ、成績アップを求めるということだ。
学力テストで本当の学力が分かるものではない。分かるのは一部分の学力にしか過ぎない。本当の学力とは何か、それを養う教育実践をみんなで創造する学校をつくるためにどうしたらいいのか。静岡県の子どもの成績が悪かった、これは県の恥だ、学校の教育が不十分だったからだ、と短絡的にとらえる首長によって、テスト競争を激化させれば、日本の学校砂漠はまたまた進む。