犬は考える

 ランは8歳。大型犬の一般的寿命は12歳とか、13歳とかいうが、小型犬はもう少し長い。ランは中型犬、14歳ぐらいは生きるかなと思う。ランの寿命と、トウちゃんのぼくの寿命と、ときどきなんとなく比べている。トウちゃんのほうが長生きしそうだから、トウちゃんがランの最期を看取ることになるか。あと6年ほど、そのときが来るのを考えておかなくてはならない。そのときは、庭に葬ってやろう。ちょっと大きい自然石を、よっこらしょと抱えてきて、墓石にしよう。そんなこと考えるなよ、とランは言うかもしれない。まだランはいたって元気だ。
 ランは昼間、リードにつながれていて、自由がない。長めのリードだから、暑ければ日陰にはいり、寒ければ日向に出て、という程度の移動は出来る、その程度のわずかな自由。
 夕方家に入ると、リードはなくなり、自分の意思で動くことができる。家の中の生活を見ていると、犬の行動にも犬の思考や判断が働いていることが分かる。
 朝、5時過ぎに出発するウォーキング、青年期までのランは、時間が来ると、トウちゃんを起こしに来た。ところがこのごろは、起こしにくることはない。トウちゃんが起きていくとランも起きる。それから服を着て一緒に階段を下りていった。それがさらに変化した。ぼくが階段を下りていっても、ランはいっしょについてこなくなった。ぼくが、洗面所に入って顔を洗い、お茶を飲んで、居間のカーテンを開け、靴下をとって、玄関で靴を履く、という段階まではランは動かなくてもいいと考えているらしい。だから二階で寝そべっている。ぼくが靴をはいて、いよいよ出発だと分かると急いで階段を下りてくる。
 一日外で過ごして、夕方家に入るとき、濡れたタオルを硬く絞って、ランの体をくまなく拭いてやる。そしてランは家に上がる。ぼくはタオルを外の水道で洗って帰ってくると、ランはあがりがまちの所で待っている。これは何の指示もしていないのにランの自由意志で行なっている。
 「二階へ行っておいで」
と言ってやると、解かれたように階段を上がっていく。それから二階でおもちゃの笛を口にくわえてチュウチュウ鳴らし、トウちゃんの上がってくるのを待っている。
 ぼくは二階に上がって服を着替え、また下りてくる。ここから後は、ランの判断になる。居間に降りてくることもあるし、二階で寝ることもあるし、玄関に寝そべることもある。自由に動いている。その行動には何らかの思考が働いている。

 青島(チンタオ)の中国労働部研修所で教えていたとき、寮の近くの床屋さんの前に犬が座っていた。あごひげを生やした、白茶の毛の中型犬だった。この子は、左前足に障害をもっていて使えず、いつも左前足をだらんと持ち上げ、三本足で歩いていた。犬はリードにつながれていない。床屋の前の歩道に座って、横を人が歩いてもへっちゃらである。われ関せずで、眠っていることもある。その子が、突然何を思うのか、ぴょこぴょこどこかへ出かける。住宅街のなかで出会ったこともある。公園の中でよその犬に出会うこともあるが、けんかはしない。吠えることもしない。おだやかに行き過ぎる。何を思って出かけるのか、何か思うらしい。遠くまで出かけて、歩道をぴょこぴょこ帰ってくる。
 ある日、床屋の前の車道の真ん中にその犬が立ち止まっているのを見た。中央分離線の両側を車が次次にやってきて、向こう側へ道路を渡りきることができないでいた。とうとうあきらめて、こちら側の車が途切れたときに帰ってきた。

 その犬が、見えなくなった。
 「あの犬は死んだ」
 生徒のひとりが言った。